一.クラウド上の記憶

平成の終わり、とある地方都市。深夜のコンビニエンスストアでアルバイトをする大学生の修平は、その日、奇妙なものを目撃した。店の裏口でゴミを捨てようとした時、空中に浮かぶ、真っ黒な球体。大きさはバスケットボールほどで、表面は漆黒の闇を凝縮したかのように、一切の光を反射しない。

「なんだ、あれ?」

修平が恐る恐る手を伸ばすと、球体はまるで意思を持つかのように、ぬるりと横に滑った。何度か試しても、触れることはおろか、風さえ感じない。それはそこに存在しながら、存在しないかのように修平の指をすり抜けていった。その日から、修平の日常に「ぬるり」が忍び寄るようになった。

最初はただ浮いているだけだった「ぬるり」だが、やがて不気味な現象を引き起こし始める。ある日、修平は友人の名前を思い出せなくなった。次に、大学の授業内容が頭から抜け落ちた。そして、ついには自分の家族の顔さえも曖昧になっていく。

記憶の喪失は、日を追うごとに加速していく。修平は焦った。しかし、修平がスマートフォンで「家族 名前」と検索すると、画面には母や妹の名前が表示され、彼らの顔写真まで出てくる。友人の名前を検索すれば、その友人のSNSプロフィールが瞬時に表示された。まるで、自分の失われた記憶が、インターネット上に保管されているかのようだった。 

「ぬるり」による記憶の侵食が加速する一方で、修平は奇妙な事実に気づき始めた。失われたはずの記憶が、インターネット上には明確な形で残されている。まるで自分の脳から吸い出された情報が、クラウド上にバックアップされているかのようだ。

ある日、修平は高校時代の友人との再会を控えていた。しかし、彼の顔も名前も思い出せない。「ぬるり」がすぐそばを漂っている。修平は意を決して、スマートフォンの検索窓に「高校 友人」と入力した。すると、画面にはまぎれもなくその友人の名前と、彼の顔が写った集合写真が表示された。修平は写真を見つめ、少しずつ記憶をたぐり寄せようとした。

友人との再会は、ぎこちなかった。「久しぶり」と声をかけられ、修平は反射的に「久しぶり」と返したが、心の中では「この人は誰だ?」という疑問が渦巻いていた。友人が語る高校時代の思い出話を聞くが、まるで誰か他人の人生を聞いているようだった。言葉は耳に入ってくるのに、感情が追いつかない。スマートフォン無しでは、自分の過去は失われてしまった。

二.同期完了

ある晩、修平はアパートの部屋で、大量の検索履歴が残るスマートフォンを握りしめていた。自分の家族の顔、友人との思い出、大学での講義内容。すべてがインターネット上にある。修平は、インターネットを通してしか自分自身を認識できなくなってしまった。

その時、「ぬるり」が修平の目の前で、これまでになく強く脈動した。その振動は、修平のスマートフォンからも、かすかに同調するような音が聞こえてくる。スマートフォンの画面が、まるで「ぬるり」の表面のように漆黒に染まり、その中央に、進捗バーが浮かび上がった。進捗バーは、0%からカウントをはじめ、100%を目指してゆっくり伸びていった。

進捗バーがゆっくりと伸びていく間、修平の脳は急速に回転していた。進捗バーはじわじわと進んでいく。5%、12%、18%……。そのたびに、走馬灯のように断片的な記憶、笑い合った友人の顔、食卓を囲んだ家族の声、講義室のざわめき……あの時思い出せなかった記憶が、ぐるぐると修平の脳を駆け巡った。

やがて、進捗バーが100%に到達した。その時、

「修平:クラウドへ同期完了しました」

と表示されたスマートフォンだけを残して、部屋には誰の姿も無くなっていた。


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