一.ぬるりの文様
春も終わりに近づいた、やや蒸し暑い日の夕暮れだった。僕は、いつものように公園で友達と遊んでいた。日常の音の中に、それは突然現れた。
地面から数センチ浮遊する、掌サイズの黒い球体。まるで墨を溶かしたかのような、何の変哲もない、ただ真っ黒なそれ。僕たちは興味津々で近づいた。
「なんだこれ?」
先に手を伸ばしたのは、好奇心旺盛な友人だった。指先が触れようとした瞬間、それは「ぬるり」と音もなく横に滑り、彼の手をかわした。
その日以来、「ぬるり」は僕たちの間でちょっとした話題になった。近所の公園だけでなく、通学路、神社の境内、果ては僕の家の庭にも現れるようになった。最初は面白がっていた僕たちも、次第にその不気味さに気づき始めた。
ある日、いつも元気なサクラが学校を休んだ。連絡網で回ってきたのは、「高熱でうなされている」という情報だった。その日の夕方、僕はサクラの家の前を通った。二階の窓に、あの黒い球体が張り付いているのが見えた。
次の日、サッカー部のエースであるタケシが練習中に突然倒れた。病院へ運ばれても原因不明。僕がタケシの家の前を通ると、やはり窓に「ぬるり」が張り付いていた。
「ぬるり」は、それに触れようとした者の生気を吸い取る。
そして、ついにその日は来た。母親が、朝からひどく気分が悪そうだった。その日の夕方、僕は自分の部屋の窓に、あのぬるりが張り付いているのを見てしまった。心臓が凍りついた。
僕は母親を守らなければ。その一心で、僕は「ぬるり」に手を伸ばした。何度も何度も、触れようとしてはすり抜ける。焦燥感が僕を支配する。その時、僕はふと、いつもと違う感覚に気づいた。
「ぬるり」は、僕の右手を避ける。しかし、左手には反応しない。
僕は左手をゆっくりと「ぬるり」に伸ばした。すり抜ける感覚はない。そして、指先が、確かに「ぬるり」に触れた。
ぐにゅり、と得体の知れない感触が左手に伝わる。僕はそれを掴んだ。
その瞬間、僕の左手は、まるでインクの中に浸したかのように真っ黒に染まった。「ぬるり」は、僕の掌の中で泡のように消えていく。そして、消えたはずの「ぬるり」の痕跡が、僕の左手の甲に、まるで墨で描かれた文様のように浮かび上がった。
翌日、母親はすっかり元気になっていた。しかし、僕の左手は、あの日のまま、黒い文様が刻まれていた。そして、僕の周りから、「ぬるり」の姿は消えた。
二.二十年後
20年後、彼は32歳になっていた。あの日の出来事は、彼にとって遠い記憶の彼方に追いやられ、左手の甲に残る黒い文様も、単なる奇妙な痣として受け入れていた。医師からは「原因不明の皮膚の色素沈着」と言われ、特に生活に支障もなかったため、気にすることもなかった。
しかし、最近、ある奇妙な変化が起き始めていた。ここ数ヶ月で、左手の黒い文様が、僅かに、しかし確実に広がっていることに気づいた。最初は気のせいだと思っていたが、日に日にその範囲は広がり、まるで墨汁を垂らしたかのように、彼の腕を這い上がろうとしている。
ある晩、彼は悪夢で目が覚めた。夢の中では、あの「ぬるり」が、無数に、どこまでも広がる闇の中で蠢いていた。そして、その一つ一つが、左手の文様と同じ形をしていた。そして翌朝、彼の左腕の大部分は、完全に漆黒の文様に覆われていた。
その日の午後、彼はひどい頭痛に襲われた。視界がぼやけ、平衡感覚が失われる。意識が遠のきかけたその時、彼は自分の体から、あの黒い球体が、いくつも、いくつも、ふわふわと飛び出してくるのを見た。
「ぬるり」は消えていなかった。あの日、彼が掴んだことで、それは体内に取り込まれ、20年の歳月を経て、再び新たな形で世界に解き放たれようとしているのだ。
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