一.穴だらけのカレンダー

僕が初めて「ぬるり」に出会ったのは、ちょうど奇妙なカレンダー事件が起こるときと同じだった。それはまるで、闇が凝縮されたような、手のひらサイズの黒い球体。宙を微かに漂い、僕が手を伸ばすと、ぬるりと空気のようにすり抜けた。掴めない、でも確かにそこにあった。

最初は気のせいだと思った。けれど、ある朝、目にした日めくりカレンダーの日付が、一日ずれていることに気づいた。今日は確かに火曜日だったはずなのに、カレンダーは水曜日を指している。僕の記憶には火曜日の出来事がすっぽり抜け落ちていた。まるで、その一日が存在しなかったかのように。

ぬるり」を見るたびに、この現象は起こった。最初は一日、次に二日。やがて、僕の日常は穴だらけになった。週の半分が、僕の知らないうちに過ぎ去っていく。家族や同僚との会話も噛み合わないことが増えた。彼らは僕が経験していない「昨日」の話をする。僕だけが、時間から取り残されているようだった。意識が途切れる感覚はない。ただ、あるはずの時間が、そこにはないのだ。

次第に、僕の認識していない日が、僕が認識している日を、遥かに上回った。二度と目覚めなければどうしよう。このまま、僕の意識は、いつか完全に消え去ってしまうのだろうか。自分が溶けて、存在そのものが曖昧になるような、底知れない恐怖が僕を支配した。


二.ある男の人生

ある男は「ぬるり」に出会って、人生が変わった。それは、掌ほどの大きさの、揺蕩う漆黒の球体。触れようとすると、球体はまるで意思を持つかのように、ぬるりと滑り、掴めないものだった。

男の人生は、ずっと夢の中にいるようだった。漠然とした不安、常にどこかぼやけた視界。しかし、ある日、奇妙な黒い球体、「ぬるり」を見たときから、男は明確に覚醒するようになった。

ぬるり」を見るたびに、覚醒する。最初は数日に一度。やがて頻度は増し、男は週の半分を、はっきりと目覚めて過ごせるようになった。視界は鮮明になり、思考は明晰。かつて夢のように曖昧だった世界が、色鮮やかに、そして確固たるものとして目の前に現れた。

「ようやく、俺は生きている!」

男は喜びを隠せない。夢の中でしか生きられなかった自分から解放されたのだ。家族や同僚との会話も心から楽しめるようになった。失われたと思っていた時間を取り戻したかのように、彼は毎日の出来事を、はっきりと記憶し、五感で味わうことができた。

ぬるり」を見る頻度はさらに増し、ついに男は、毎日を完全に覚醒して過ごせるようになった。彼は「ぬるり」に感謝した。世界がこんなにも鮮やかだなんて。自分は最高の人生を送っている、と心から信じることができた。


三.ハッピーエンド

その男は僕だった。男が得た世界は、実は僕が失った時間によって構築されたものだったのだ。「ぬるり」は、僕から時間を奪い、その奪われた時間の中で、もう一人の僕を覚醒させていたのだ。

その後も僕は永遠に、目覚めることはなかった。僕が失った日常を、彼は永遠に享受しつづけた。僕の人生は、彼にとってのハッピーエンドとして消費されていった。


Comments

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *