一.弱虫ミウ

美羽は、生まれたときから怖がりだった。夜、布団の中で聞こえる風の音にも怯え、テレビで見るホラー番組には一秒も耐えられずに泣き出していた。小学校の肝試しでは、真っ先に泣き崩れたことで「弱虫ミウ」という不名誉なあだ名がつき、しばらくクラスの笑い者だった。

年齢が上がるにつれ、周りには怖がりな自分を馬鹿にする人はいなくなった。だが、美羽は内心ずっと思っていた。臆病な自分を乗り越えて強くなりたいと。


二.ぬるりとの邂逅

大学に進学してから、美羽は新たな友人たちと出会い、その中の一人、心霊スポット巡りを趣味にする沙耶と親しくなった。沙耶は美羽の内なる「恐怖」と向き合いたいという気持ちを知ると、ある日こう誘った。

「美羽、私と一緒に廃病院に行かない? ちょっと変な噂がある場所なんだけど…なにか、感じるかもしれないよ」

廃墟マニアの間で密かに有名なその病院は、かつて無免許医が手術を繰り返し、複数の死亡事故があったとされる曰く付きの場所だった。美羽の心は大きく揺れた。怖い。でも、乗り越えたい。

その病院の奥にある手術室跡で、二人は異様なものを見つけた。空中に浮かぶ、漆黒の球体。光を吸い込むような黒。美羽は元来怖がりだが、その存在には不思議と好奇心を覚えた。沙耶が手を伸ばすが、球体はすり抜け、まるでそこに「あるのにない」ような感触だった。

「……ぬるり、って感じだね」

思わずこぼれたその言葉が、後にその球体のあだ名となった。

美羽が恐る恐る「ぬるり」に触れた瞬間、奇妙な感覚が全身を駆け抜けた。冷たくもなく、暖かくもない、存在の輪郭すら曖昧な何か。そして、心の奥深くにあった恐怖の「根」が、ふっとほどけていくような感覚だった。


三.ミウの変化

その日から、美羽は変わり始めた。夜道も怖くなくなり、不意の音に驚くこともなくなった。地下鉄での痴漢にも毅然と立ち向かい、感謝されることもあった。

友人たちは、口をそろえて「最近のミウは、まるで別人みたい」と言った。自信に満ち、笑顔も明るくなった彼女に、周囲の評価も上がっていった。美羽自身も「これが本当の私なのかもしれない」と思い始めた。

それからというもの、美羽は暇を見つけては「ぬるり」を探し、触れるようになった。その奇妙な球体に触れるたび、まるで見えない鎧が、自分を包んでいくようで、それが美羽にはうれしかった。

しかし、何も怖くないということは、何も感じないということだった。美羽はだんだんと平凡な日々に物足りなさを感じるようになっていった。かつては、物音、視線、夜の影――あらゆるものが脅威に思えた。だが今では、ただ退屈だ。何も怖くない自分が、本当に“生きている”と感じるためには、何が必要なんだろう。美羽は、そんなことを考えるようになっていた。

美羽と一緒に心霊スポットを巡った。山道を一人で歩いた。絶叫マシン。ビルの屋上。バンジージャンプ。色々な肝試しをした。しかし、作られたスリルでは、美羽の「飢え」は満たされないと感じていた。


四.快楽と恐怖

ちょうどその頃、美羽は自動車免許を取得したばかりだった。ある日、レンタカーを借りて、美羽がハンドルを握り郊外へと国道を走った。美羽は、運転するにつれ、ハンドルを握る爽快感を、だんだんと自覚し始めた。

助手席で不安そうに沙耶が尋ねた。

「美羽、初めての長距離運転だよね? ゆっくり行こう?」

しかし、美羽は笑って返した。

「うん、大丈夫。風に乗るだけだから」

そう言いながら、アクセルを深く踏み込んだ。エンジンが唸りを上げ、車は急加速した。スピードメーターはあっという間に100を超え、120、140、そして160kmにまで達した。

「ちょ、ちょっと待って、美羽、マジでやばいって! スピード出しすぎ!」

「大丈夫だよ、怖くない。」

沙耶の声は必死だったが、美羽の表情はどこかうっとりしていた。目の奥に、奇妙な熱が宿っていた。それは快楽に近い何かだった。

そして、漆黒の球体--「ぬるり」が、音もなく彼女たちの車の脇をすり抜けていった。車の速度はあまりに速く、それは誰にも気づかれることはなかった。

その時、道がカーブに差しかかる。美羽はほんの刹那、それに気づいていた。だが、ハンドルに触れる指は動かなかった。――どうなるか、試してみたい。との一瞬の欲望が、美羽にハンドルを固定させ、

次の瞬間、目前に白く錆びたガードレールが迫り、美羽は久しく忘れていた恐怖を

(おわり)


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