一.原人とぬるり

これは、猿が人間に進化する途中の話。

「太陽が、沈む。」

集落のリーダーであるガクは、発達したばかりの言語で集団に伝えた。今日狩れた獲物は小さく、皆の顔には疲労と不満が滲む。火も無い時代。日が沈めば、いくら食料が少なかろうが狩りを辞め、危険な夜を耐え忍ばなくてはならない。彼らは、常に飢えに苦しんでいた。

そんな中、長老が遠くの森の奥を指さした。「あれ。」。彼らが目にしたのは、闇に溶け込むような黒い球体だった。宙に浮遊し、まるで生きているかのように微かに揺らめいている。それはこれまで見たこともない、異質な存在だった。ガクが好奇心に駆られて手を伸ばす。しかし、触れようとした瞬間、「ぬるり」と球体は横に滑り、彼の指先をすり抜けた。

次の日も、「ぬるり」は集落の周辺を漂い続けた。それは何もせず、ただそこにいるだけだった。人々は、次第に気にしなくなっていった。


二.奇妙な恵み

ある日、ガクが水を探して森を彷徨っていると、地面が震えるほどの足音が響いた。現れたのは、巨大なナウマンゾウだった。しかし、そのナウマンゾウは奇妙だった。他の個体が持つような警戒心や凶暴さがなく、まるで何か深い夢の中にいるかのように、ぼんやりとした目で立ち尽くしている。その周りを、「ぬるり」がいくつも浮遊していた。

ガクは直感した。「ぬるり」が、この巨大な獣の抵抗する力を奪っているのだと。彼は急いで集落に戻り、男たちに事態を伝えた。「ぬるり。狩り。うまくいく。」飢えに苦しむ男たちは、半信半疑ながらもガクの言葉に従った。そして、容易くナウマンゾウを仕留めることに成功した。

集落には久しぶりに活気が戻った。人々は「ぬるり」を、飢えから救ってくれた奇妙な恵みとして受け入れ始めた。「ぬるり」を追いかけて、集落を移動するようになった。だが、ガクだけは違和感を覚えていた。

ガクは、狩りの最中に見たナウマンゾウの虚ろな目を忘れられなかった。そして、集落の人々の顔にも、喜びや悲しみといった感情の起伏が薄れ、どこか平坦な表情が増えていくように見えた。彼らの目には、かすかな黒い光沢が宿り始めていた。


三.ぬるりに冒された者たち

ある夜、空を切り裂くような雷鳴が轟き、激しい雨と共に山火事が発生した。燃え盛る炎は瞬く間に森を飲み込み、集落へと迫ってくる。他の部族が恐慌状態に陥り、我先にと安全な場所へ逃げ惑う中、ガクの集落の者たちは違った。

彼らは炎を見つめていた。その顔には、恐怖も驚きも、そして逃げようとする本能すらも読み取れなかった。彼らの目は、まるで燃え盛る炎そのものが持つ熱と光に、ただ無感情に魅入られているかのようだった。ガクは叫んだが、彼らは動かない。

その男たちは炎に焼かれることもなく、地面に落ちた燃える枝を拾い上げた。まるで、それが何十年も前から知っていた道具であるかのように、彼らは無感情にたいまつを手にしていた。彼らの目には、恐怖ではなく、ただ茫洋とした認識の光だけが宿っていた。

彼らは燃え盛るたいまつを掲げ、燃え広がる森の奥へと進んでいく。その姿は、まさに「ぬるり」に冒された存在だった。


四.対立

火事がおさまって数日後。ガクたちはダンスをしたり歌を歌ったりして身の無事を喜び合った。しかし心無きものは、「ぬるり」に冒され火の力に魅せられるにつれ、日々を「役に立つか否か」で測るようになっていた。

焼け焦げた森の匂いがまだ漂う中で、集落は大きく二つに分かれ始めていた。やがて、心無きものたちは「感情は不要」と言い始め、火の力を新たな価値として掲げた。

「止めるな、ガク。我々は、効率的な道を進むだけ。」

「効率だと?喜んだり悲しんだりすることも必要じゃないか。」ガクは拳を握りしめた。

男は何も言わず、ゆっくりとガクに近づいてきた。その手には、燃える枝が握られている。ガクは覚悟を決めた。心なき者たちと、心を持つ自分。どちらが正しいのか、ここで決着をつけるしかない。

ガクは地面に落ちていた鋭い石を拾い上げた。男が振り上げた燃える枝を避け、渾身の力で石を振り下ろした。しかし、狙いはわずかに逸れ、石は男の肩をかすめ、地面に転がっていた別の石に激しくぶつかった。

キィン!

甲高い音と共に、暗闇の中に赤い火花が散った。


五.新たな価値

男も、そしてガクも、その火花に目を奪われた。ガクはもう一度、石と石を打ち付けてみた。再び、火花が散る。何度も繰り返すうちに、小さな燃えカスが生まれ、それが枯れ葉に引火した。

ぼう、と小さな炎が生まれた。

男の虚ろな目に、わずかな変化が見られた。それは驚き、そして理解。感情の薄い声で、男が呟いた。「…これは…」

心なき者たちは、ガクが作り出した炎に、それまで見せたことのない反応を示した。彼らの目は、火の熱と光に吸い寄せられるように輝き、その中に微かな感情の兆しが見えた。彼らはガクに近づき、火を囲んで座った。

男は静かに言った。「…無駄、ではなかったのか。」

ガクは首を横に振った。「ああ、無駄じゃなかった。むしろ、お前たちが失いかけていた、大事なものを取り戻すきっかけになったんだ。」

ガクはその後も、新しい狩りの方法や、獲物を効率的に解体する道具、そしてより複雑な意思疎通を可能にする言語の概念を次々と発見していった。彼が何か新しい試みを始めると、最初は「無駄だ」と反対する者もいたが、やがて彼の発見が彼らの生活を豊かにすることを知り、積極的に協力するようになった。

ぬるり」は姿を消し、代わりに人々の心には、好奇心と探求心という新たな炎が灯った。


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