一.3年前の事故
20世紀も終わろうとする頃、街のミニ遊園地が廃業してから三年が経った。駅前の商店街もシャッターが降り、人影もまばらなこの街で、奇妙な噂が囁かれ始めた。黒い球体。それは誰もが触れられず、まるで実体がないかのように「ぬるり」と指の間をすり抜けるため、人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。「ぬるり」は、人の記憶を奪ったり、運命を変えたりすると囁かれていた。
主人公は、高校を出たばかりの青年、健斗。働かなければとわかっていても、気力が湧かず、ただ毎日をぶらぶらと過ごしていた。彼の心には、あるものがずっと沈殿していた。
――三年前の、あの事故。
あのとき彼は、幼馴染だった結以を初めてデートに誘った。小さな、昔からあったミニ遊園地。当時も寂れていたけれど、観覧車はまだ動いていた。中学最後の春休み。卒業前の、ささやかで甘酸っぱい思い出になるはずだった。
けれど、あの日の午後、観覧車が頂上に差し掛かった瞬間だった。ふと、視界の隅に黒く艶のある球体が、浮かんでいた。
「ぬるり…」
結以がそう呟いた直後、観覧車がギギッと異音を立てて止まり、座席が小刻みに揺れ始めた。
「しっかり掴まって!」
だが間に合わなかった。次の瞬間、大きな揺れとともに結以の体が座席から浮き、観覧車の座席フレームに激しく頭を打ちつけた。赤い色が、空中に舞った。ぬるりの姿は、もう消えていた。
「結以!」
自分の声だけが、空しく遊園地に響いた。
それから、彼女は目を覚ましていない。
二.後悔の日々
彼は今も、ときおり結以の病室を訪れる。無言のまま白い部屋に座り、ただ彼女の寝顔を見つめている。ベッドに横たわる彼女の胸が、かすかに上下しているのを見るたび、「生きている」と確認するように、健斗は小さく息をつく。
――もし、あの時誘っていなければ。
何度も、何百回も、思い返した。けれど、過去はどうやっても変わらない。純粋な恋だった。他愛ない会話、たわいない時間。それが、これからもずっと続くものだと、疑いもしなかった。彼には、彼女を忘れて前に進む自由があった。新しい誰かと、違う人生を始めることだってできた。しかし、そのような気にもなれず、ただ死んだような日々を繰り返していた。
三.逆回転する運命
ある日、健斗は今は寂れた遊園地の跡地を訪れた。観覧車の残骸が夕日に照らされ、不気味な影を落としている。錆びついた鉄骨を見上げると、あの日の叫びが胸の奥で蘇った。どうしてあんな場所に誘ったのか。どうしてあの瞬間、手を強く握ってやれなかったのか。何度悔やんでも、何度願っても、時間は残酷に前へ進むばかりだった。
そこに「ぬるり」が、再び姿を現した。何も語らず、何も答えず、ただゆっくりと、空中を旋回していた。「あの時の事故は、お前のせいなのかよ!」健斗はやるせない怒りをぶつけるように、「ぬるり」に拳を突き立てた。
その瞬間、「ぬるり」が光を放ち、廃墟の観覧車が、軋んだ音を立てて逆回転を始めた。ギギギ、ギィィィ。錆びついたゴンドラが、ゆっくりと、しかし確実に、過去へと時間を巻き戻していく。それに合わせて、周囲の風景も、色彩を取り戻し、人々の話し声が鮮明になる。
気がつけば、健斗は結以と一緒に、三年前の事故が起こる直前の、あの観覧車の一番高いゴンドラの中にいた。眼下には、輝くネオンに彩られた遊園地が広がり、はしゃぐ子供たちの声が聞こえる。結以は、隣で無邪気に笑っていた。健斗は、咄嗟に結以の手を強く掴んだ。
「結以! しっかり掴まって!」
混乱する結以を必死に抱きしめた。直後、彼らが乗っていた観覧車から、あの事故を引き起こすことになる金属音が響き渡った。しかし、今回は二人とも無事だった。
「ぬるり」は、彼らの頭上をゆっくりと旋回し、そして、夕闇に溶けるように消えていった。健斗は、目の前で驚いた顔をしている結以を見つめ、安堵の息をついた。
四.正しい未来、幸せな未来
その後も、二人は永遠に遊び続けた。廃墟だった遊園地は、「ぬるり」の魔力で活気を取り戻した。色とりどりの屋台の匂い、子供たちの歓声、観覧車から見下ろす夕焼け。すべてが、三年前のあの日、彼らが味わうはずだった幸福な思い出を、今まさに取り戻していった。健斗は、彼女の屈託のない笑顔を見るたびに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
しかし、健斗が結以の手を握り返すと、彼女の指先が、今度はひどく冷たく、まるで凍ったように感じられた。結以の笑顔が、ゆっくりと、しかし確実に、曖昧になっていく。「ぬるり」が、健斗の視界の隅を「ぬるり」と横切った。その黒い球体は、以前よりも大きく、より明確に、そこに存在していた。
健斗は理解した。自分も、そして結以も、あの三年前の遊園地の事故で、致命的な怪我を負っていたのだ。彼らが観覧車を降りた瞬間、時間が巻き戻されたのではなく、「ぬるり」が改変した、本来あるはずだった“正しい未来”が、あるべき場所に戻っただけだった。
現実の健斗と結以は、白いシーツに包まれたまま、静かに息をしたまま眠り続けている。一方で、彼らの意識は、永遠に続く夢の中で、幸せな日々を送り続ける。それはどの未来とも異なる、彼らが望んだ「もしも」の世界。決して目覚めることのない、優しい安息の地だった。
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