一.忘却の未来

砂に埋もれた未来の日本。文明の残骸は風にそよぎ、人々は地下シェルターで日々をしのいでいた。過去の記憶は次第に薄れ、閉塞した日常だけがそこにあった。

そんなある日、それは突如として現れた。
黒く球形の浮遊物――人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。

ぬるり」は、地下都市の居住区に現れ、空中をゆっくりと漂っていた。子供たちが面白半分に手を伸ばしても、それはまるで幻のように指の間をすり抜ける。住民たちは最初こそ警戒したが、やがて無害だと判断し、次第に気にも留めなくなっていった。

だが、研究者のミツルだけは違っていた。彼はその存在に、これ以上ない好奇心を感じていた。


二.悪夢の深淵

ぬるり」の出現以降、地下都市では奇妙な現象が頻発するようになった。人々は次第に夢と現実の境界を失い、やがて誰もが同じ悪夢を見るようになる。

その夢には、暗闇の中を無数の「ぬるり」が浮遊し、囁くような声が絶え間なく響いていた。それは言葉にならない叫びのようであり、どこか哀しげで、訴えかけるようでもあった。

当初は幻聴や幻覚として片付けられていたが、やがて現実にまで影響が及びはじめる。
忘れたはずの記憶が突如として甦ったり、心の奥に封じ込めていたトラウマが人々を蝕むなど、その声は徐々に人々の精神にゆがみをきたしていった。

ミツルは、次第にある仮説へと辿り着く。
――「ぬるり」は人間の脳波に干渉し、集合的無意識にアクセスしているのではないか。
そしてその無意識の奥底から響く囁きは、何かを必死に訴える“声”なのではないか、と。

ミツルは人々から悪夢の内容を聴取すると、そこにはある共通点が浮かび上がった。悪夢に繰り返し登場するある場所。それは、政府管掌地であり市民の侵入は固く禁じられた施設だった。

ミツルは「ぬるり」の発生源を特定するため、過去の資料を漁る中で、かつてこの地下に「記憶を保存する」という名目で建設された実験施設があったことを知る。それは、人々の脳波を記録し、仮想空間で再生することを目的とした、禁断の研究施設だった。施設の記録を辿ると、最後に記録された映像に奇妙な記述があった。

「被験者、意識の統合を開始。これにより、全ての記憶は一つの塊となる」

直後、映像は乱れ、ノイズの隙間から、かすかな囁き声が混じる。それはまるで、統合された意識が、消えゆく前に最後の叫びを残そうとしているかのようだった。

ミツルは実験施設に侵入することを決意した。


三.永遠のぬるり

そして、シェルターの混乱が極まる中、彼は悪夢が指し示す場所、つまりその実験施設の最深部へと向かった。そこにあったのは、脈動する巨大な「ぬるり」。無数の黒い球体が重なり合ってできた、禍々しい塊だった。その周囲には、かつての被験者たちの意識が形を成したような、半透明の人影が浮かび上がっていた。

そのとき、ミツルは悟った。「ぬるり」とは、統合された意識の亡霊――あるいは、その残骸なのだと。そして、あの悪夢は、閉じ込められた意識が発していた助けの信号だったのだ。

ミツルは巨大な「ぬるり」に手を伸ばした。

その瞬間、ミツルの脳裏に、この巨大な「ぬるり」の中に閉じ込められた数多の意識が流れ込んできた。それは、永遠に続く苦痛と、解放を求める無言の願いだった。

しかし、その苦痛の波の合間に、ミツルは過去の文明が築き上げた、豊かで刺激に満ちた生活の断片を見た。退廃し、砂に埋もれた自身の時代とは打って変わって、そこには色彩豊かな景色、歓声、そして無限の知識が溢れていた。それは彼にとって、あまりにも魅力的で心地よい世界だった。ミツルの意識は、その集合意識の深淵へと吸い込まれていく。

抗うことなく、彼は「ぬるり」の中に身を委ねた。

やがて、地下シェルターの人々は、悪夢に苦しみながらもミツルの帰還を待ち続けた。だが、彼が戻ることは二度となかった。

ミツルは「ぬるり」の内に溶け込み、永遠に続く幻影の中で、静かに、満ち足りた微笑みを浮かべていた。


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