一.触れられぬ存在

夜の闇が帳を下ろす頃、古びた団地の薄暗い一室で、テレビの砂嵐だけが唯一の話し相手だった彼女は、それを見た。

「ぬるり」と音もなく現れたそれは、ガラス玉ほどの漆黒の球体。光沢があるが、不気味なことに何の反射も見られない。恐怖よりも好奇心に突き動かされ、恐る恐る手を伸ばす。触れる寸前、球体は微かに揺らめき、まるで水の中を泳ぐ魚のように、ぬるりと彼女の指の間をすり抜けた。掴めない。存在しているのに、掴めない。日頃から誰にも必要とされていないと感じていた彼女にとって、その奇妙な存在は、むしろ刺激的ですらあった。

翌日から、「ぬるり」は彼女の日常に現れるようになった。眠る枕元、料理中の背後。常に視界の端にあり、しかし決して触れることはできない。まるで彼女の孤独に寄り添うかのように、あるいは孤独を餌とするかのように、それはただそこに存在し続けた。彼女は「ぬるり」が心の拠り所となっていた。

しかしその存在は、客観的には彼女の心身を蝕んでいったようだ。睡眠は浅くなり、食欲は失われ、唯一たまに話すのあった団地の自治会員からの連絡さえ、彼女は取ることをしなくなった。

心配した彼は、彼女の部屋を訪ねた。彼女は「ぬるり」の存在を熱弁したが、「ぬるり」は自分にしか見えないようだ。「妙なことを言い出した」と、彼は落胆した。それは彼女をさらに深く、見えない壁の中に閉じ込めた。彼女は孤立感を深め、次第に狂気に陥っていく。

「私だけが見えているのよ! 私だけが……!」


二.継承

数ヶ月後、団地の住人からの通報で、彼女の変わり果てた姿が発見された。死因は衰弱死。検視官の一人は首を傾げた。彼女の遺体の隣に、漆黒のガラス玉が落ちていたのだ。ビー玉ほどの大きさで、何の反射もない。検視官が手を伸ばすと、ぬるりと指の間をすり抜け消え去った。

この日を境に、検視官の日常は一変する。夜な夜な部屋の隅に現れるその漆黒の球体「ぬるり」は、次第に彼の視界に頻繁に現れるようになる。職場でも街中でも、誰も気づかない「ぬるり」の存在は、彼と周囲との間に見えない壁を築いていった。

彼は眠れなくなり、食欲も失っていった。ある晩、鏡に映った自分の顔を見て、彼はゾッとした。そこに映っていたのは、憔悴しきった、あの団地の彼女と瓜二つの顔だった。

ある雨の日の深夜、検視官は自宅のベランダに立っていた。彼の目の前に、これまでで最も巨大なぬるりが現れた。それは彼を包み込むかのように大きく、周囲の光を全て吸い込んでいるかのようだった。

彼は震える手で、ゆっくりと「ぬるり」に触れようとした。指先が、その漆黒の表面に触れる寸前。検視官の視界が歪み、世界がねじれていく。彼の全身から力が抜け、意識が遠のく。最後に感じたのは、体の内側から、温かい何かがぬるりと彼の喉元を這い上がり、口から零れ落ちていく感覚だった。


三.終わりと、

翌朝、検視官は自宅から姿を消した。彼の部屋に残されたノートには、震える筆跡で、たった一言だけ記されていた。

「私も、ぬるりになった。」

そしてそのノートの隣に、もう一つ、別のメモがあった。それは、まるで子供の落書きのような稚拙な文字で書かれていた。

「ありがとう。これで、わたしもひとりじゃない。」

そのメモのそばに、あの団地の彼女の部屋で見つかったのと同じ、漆黒のガラス玉が、まるでそこにずっとあったかのように静かに転がっていた。


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