Category: 和製ホラー、怖い話、怪談、都市伝説
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ぬるり008
一.跡取り 平成の初期、日本のとある地方都市。バブル崩壊の波を受け、シャッターを下ろした商店が目立つ駅前の一角に、奇妙な噂が数十年ぶりに流れだした。 「ぬるり」 それは、人の頭ほどの大きさの、漆黒の球体。ふわりと宙に浮かび、意思を持つかのようにゆっくりと漂う。手を伸ばしても、まるで霞のように、ぬるりとすり抜けて掴めない。その正体は、誰も知らない。ただ、その黒い球体は、決まって「ある特定の家」の周囲に現れると言われていた。 その家は、この町の旧家である神崎家だった。神崎家は代々、この土地の政治や経済に深く関わってきた。特に、高度経済成長期には、彼らが経営する化学工場が町の主要産業として栄えた。しかし、近年は当主の神崎巌が病に伏せ、その影響力は衰える一方だった。 巌の息子である啓司は、東京の大学を卒業後、実家に戻り家業を継ぐため、町議会への出馬の準備をしていた。 啓司は、何不自由なく育てられた。名家の跡取りとして大切に扱われたが、その周囲ではいくつかの不可解な出来事があった。飼っていた猫や、捕まえた虫が突然消える──そんなことが一度ならずあった。そして、消えたのは小動物だけではなかった。 啓司には妹がいた。妹は先天的な障害を抱えていたが、いつも穏やかに笑っていた。堅苦しい家の中で、啓司が心から気を許せたのは妹だけだった。しかし、その妹も、10歳の誕生日を迎える前に、突然姿を消した。警察も動き、家中が騒然となったはずなのに、不思議なことに、出来事の痕跡そのものが、時間とともに街の記憶から消えていった。 その記憶は啓司の心の奥に暗く沈み、彼の人格を静かに揺らし続けた。 二.ぬるりを見た 「ぬるり」の目撃情報が増えるにつれ、町では奇妙な出来事が頻発するようになった。深夜、神崎家の工場跡地だけが異様な静けさに包まれ、虫の声すら聞こえない。朝になると、隣接する田畑の作物が一夜で枯れ果てている。町の人々は囁き始めた。「ぬるり」は神崎家に忍び寄る不幸の前触れだ、と。あるいは、神崎家が抱えてきた「何か」の化身なのだと。 それと同時に、啓司の身辺で奇妙なことが起こり始めた。かつて彼を支持していた町議会議員が次々と不祥事を起こし、失脚していく。町長選に向けて啓司が用意していた政策提言書は、まったく別の内容に書き換えられていた。 ――まるで、最初からその文書が“正しかった”かのように。 書斎で資料を整理していた啓司の目に映ったのは、窓の外をゆっくりと横切る漆黒の球体だった。啓司は思わず窓を開け、手を伸ばした。だが、「ぬるり」は指先をかすめるように、するりと消えた。 ある日、啓司は父の巌の病室を訪れた。巌はかすれた声で呟いた。 「啓司…ぬるりを見たか…」 「あれは、この土地に巣食う『記憶の穴』だ。我々神崎家は、代々その穴を塞ぐために生きてきた。そのために、大きな代償を支払ってきた…だが、もう…」 巌は言葉を濁し、深く咳き込んだ。その時、病室の窓の外を、漆黒の球体がゆっくりと通り過ぎていった。 三.歪みの演説 数日後、選挙が迫る中、啓司は町民会館で演説をすることになった。 「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。この町の未来を担う者として、私は皆様に、より豊かで活力ある町を築くための私のビジョンをお伝えしたいと思います。長らく停滞していたこの町に、新たな風を吹き込み、若者が戻り、高齢者が安心して暮らせる、そんな温かいコミュニティを…」 壇上に立つ啓司の目に、聴衆の中に混じる奇妙な影が映った。それは、漆黒の球体、「ぬるり」だった。一つ、また一つと、その数は増えていく。すると、啓司の演説に不可解なことが起こった。 「…そのために、私はまず、町の産業基盤を強化し、新たな雇用を創出します。産業…といえば、かつてこの町には、そう、工場がありましたね。神崎化学工場。あれは…ええ、あの頃は、多くのものが生産され、町も活気づいていたはずです。しかし、その陰で…いえ、その話はまた別の機会に。 とにかく、私はこの町が再び輝きを取り戻すために…」 啓司の演説内容は、彼の意図するところではなく歪み始めた。会場も、彼の演説に奇妙な違和感を感じ、ざわつき始めた。 「…そして、私はこの町の医療と福祉を充実させ、誰もが安心して健康に暮らせる環境を整備します。しかし、健康…といえば、私は思い出すのです。あの頃、多くの人々が原因不明の病に苦しんでいたことを。奇妙な咳、皮膚の発疹、そして幼い子供たちの突然の衰弱…。神崎化学工場から排出された有害物質が、地下水を、そして農作物を汚染していたのです。父、巌は、この事実を知っていました。いえ、知っていたどころではありません。彼は、当時の町長や警察と結託し、この事実を隠蔽したのです。莫大な金を使い、被害者の口を封じ、補償を一切行わなかった。私たちの神崎家が、この町の土壌と人々の健康を蝕んでいたのです! 私は、この町の…この町の過去を…」 啓司の演説の内容は、彼の意図とは裏腹に、かつて巌が語っていた、町の公害問題と隠蔽に関する真実を暴露するものへと変貌していった。会場は騒然となった。 「ぬるり」は、啓司が「忘れさせられていた」記憶を呼び起こしていた。それは、町が目を背けてきた公害とその隠蔽の歴史そのものだった。 不本意な演説を止められない啓司の耳に、聴衆の囁きが届く。 「まさか……神崎家が……」 四.代償 町に混乱が広がる中、啓司は、かつて巌が話していた「記憶の穴」とは、この町が長年目を背けてきた公害問題の負の歴史そのものだと理解した。そして、神崎家は代々、この町にとって不都合な過去、特に公害問題の隠蔽を「ぬるり」を用いて隠蔽してきた。しかし、当主の巌が病に倒れ、その力が弱まった今、「ぬるり」は制御を失い、隠蔽されてきた真実を露呈し始めたのだ。 さらに、啓司は、巌の話した「大きな代償」という発言を思い出した。 かつて記憶の穴をふさぐために使ったのは――“妹”だったのか? 演説を終えた後、急に胸が苦しくなり、足が勝手に動いた。息を切らしながら、病院へ向かい、巌の入院している病室へ。 ――しかし。 そこに巌の姿はなく、その痕跡が消えたベッドが忽然と存在していたのみだった。 しばらくして、「ぬるり」の目撃情報はぱたりと止まった。それと同時期に、神崎家も町から姿を消したという。
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ぬるり007
一.ネットの都市伝説 2000年代前半、インターネットの片隅で「ぬるり」という奇妙な都市伝説が囁かれ始めた。 その正体は、丑三つ時に誰もいない公園などに現れるという、20センチ程度の真っ黒な球体。常に宙に浮かび、ゆっくりと漂うそれに、好奇心から手を伸ばしても、まるで幻のように指の間をぬるりとすり抜け、決して捕まえることはできない。 始まりは、ごく一部のオカルト掲示板だった。そこに投稿されたブレた写真や信憑性に乏しい目撃談は、当初、誰もが冗談として笑い飛ばしていた。しかし、やがて報告され始めたのは、ただの怪談では片付けられない奇妙な現象だった。 「ぬるりを見た翌日、着信履歴に知らない番号が残ってた」「ぬるりのそばを通った夜から、PCのデスクトップに知らないファイルが増えていた」 それらは、ぬるりが接触した人々の電子機器に、微かな異変をもたらすことを示していた。 大学院生の高橋は、この「ぬるり」の都市伝説に懐疑的な一人だった。 「ぬるり」は、「情報に寄生する実体」ではないかという仮説に対し、高橋は鼻で笑う。「そんな馬鹿な。デジタルデータが実体を持つなんて、荒唐無稽だ。」 彼はそう吐き捨てた。しかし、心のどこかで、説明のつかない現象に対するわずかな好奇心が芽生えていたのも事実だ。 そして、彼はある儀式の存在を目にする。それは、インターネットの深層に潜む「ぬるり」を呼び出すとされる、密かに囁かれていた手順だった。 【閲覧注意】ぬるり降臨の儀 手順: 現象: この儀式を終えると、自身のインターネット使用履歴や検索履歴に、「ぬるり」とは無関係であるはずの、しかしどこか不気味な検索ワードやアクセス記録が混じり始める。 また、普段使っているデバイスの壁紙が真っ黒な画像に変わっていたり、キーボードの特定のキーが触れていないのに反応したりすることがある。 それはまるで、あなたの情報空間そのものが、ぬるりに侵食され始めているかのようです。 深夜0時ちょうど。高橋は、作成した「ぬるり.zip」を、匿名掲示板にアップロードしようと試みた。進捗バーがゆっくりと99%に達した瞬間、彼は迷うことなくキャンセルボタンをクリックした。その夜、高橋はいつもより疲れて眠りについた。翌日も、そしてその翌日も、高橋は同じ儀式を繰り返した。 そして最終日。午前3時33分。高橋は、人気のない近所の公園に立っていた。少し冷える空気の中、彼は深呼吸をし、意を決して叫んだ。「ぬるり降臨!」 彼の声が夜の闇に吸い込まれていく。何も起こらない。高橋は安堵し、そして同時に、少しの拍子抜けを感じた。「やはり、ただの悪ふざけだったか…」彼はそう思い、家路についた。 二.浸食 しかし、その翌日から、高橋の日常は少しずつ、だが確実に侵食され始めた。 まず、研究室のPCの壁紙がいつの間にか真っ黒になっていた。戻しても数時間後には元に戻り、さらにキーボードのキーが触れていないのに勝手に反応する。報告書を作成中に意味不明な文字が入力されたり、ファイルが勝手に閉じたりした。 最も不安を覚えたのは、インターネット履歴だった。定期的に消去していたはずなのに、見覚えのない検索語が残っていた。 「ぬるり 実体化 条件」「存在しない データ 通信」「ネットワーク 深層 アクセスログ」 まるで無意識のうちに自分が検索したかのような、しかし記憶にないワードばかりだった。 さらに、同僚との会話中に異変は起きた。 「高橋、この論文のデータ、ちょっと見てもらえないか?」 画面を見た瞬間、掲載日時、ファイルサイズ、IPアドレス、ダウンロード履歴など、すべてのメタデータが脳に直接流れ込むように理解できてしまった。 「……どうした、高橋? 顔、真っ青だぞ」 遠くから響くような声。彼の思考は制御不能な情報の奔流に呑み込まれていた。SNSの更新、掲示板の書き込み、監視カメラの映像、匿名動画——本来なら関係ないはずのデータが脈絡なく脳内に侵入してくる。 中には彼自身の記録も混ざっていた。幼少期に遊んだ公園の映像、大学時代のメールの文面……“自分”の記憶の全てが、既にネット上に存在していたのだ。 次第に彼は、自我の境界が曖昧になるのを感じた。思考と情報、感情とログ、記憶とキャッシュ。どこまでが「高橋」で、どこからが「ぬるり」なのか——その区別が、つかなくなっていった。 三.失踪 数日後、高橋は完全に姿を消した。その後、高橋の行方は、大学関係者にも、家族にも、ネット上のどこにも見つからなかった。 ただひとつ、奇妙な動きが観測された。 彼が失踪した翌週、匿名掲示板に突如として、あるスレッドが出現したのだ。 【閲覧注意】ぬるり降臨の儀 そこに投稿されていた手順は、高橋が記録していたものと完全に一致していた。関係者たちは、スレッドの出どころを追跡しようとした。複数のルーティングを経たログの末端に、ひとつのIPアドレスが記録されていた。 調査の結果、そのIPは、かつて高橋が研究室で使用していた端末のものだった。 だが、その端末は、高橋の失踪以来、一度もネットワークに接続されていないはずだった。 「……接続記録の日時は、スレッド投稿の数分前。まるで……彼が、そこに“いた”かのように」 その瞬間、関係者の間に、言いようのない戦慄が走った。 高橋は、いまや物理世界のどこにも存在していない。しかし彼は、情報と人間の境界が完全に溶けた先にある、インターネット上の概念と化してしまったのだろうか。
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ぬるり006
一.忘却の未来 砂に埋もれた未来の日本。文明の残骸は風にそよぎ、人々は地下シェルターで日々をしのいでいた。過去の記憶は次第に薄れ、閉塞した日常だけがそこにあった。 そんなある日、それは突如として現れた。黒く球形の浮遊物――人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。 「ぬるり」は、地下都市の居住区に現れ、空中をゆっくりと漂っていた。子供たちが面白半分に手を伸ばしても、それはまるで幻のように指の間をすり抜ける。住民たちは最初こそ警戒したが、やがて無害だと判断し、次第に気にも留めなくなっていった。 だが、研究者のミツルだけは違っていた。彼はその存在に、これ以上ない好奇心を感じていた。 二.悪夢の深淵 「ぬるり」の出現以降、地下都市では奇妙な現象が頻発するようになった。人々は次第に夢と現実の境界を失い、やがて誰もが同じ悪夢を見るようになる。 その夢には、暗闇の中を無数の「ぬるり」が浮遊し、囁くような声が絶え間なく響いていた。それは言葉にならない叫びのようであり、どこか哀しげで、訴えかけるようでもあった。 当初は幻聴や幻覚として片付けられていたが、やがて現実にまで影響が及びはじめる。忘れたはずの記憶が突如として甦ったり、心の奥に封じ込めていたトラウマが人々を蝕むなど、その声は徐々に人々の精神にゆがみをきたしていった。 ミツルは、次第にある仮説へと辿り着く。――「ぬるり」は人間の脳波に干渉し、集合的無意識にアクセスしているのではないか。そしてその無意識の奥底から響く囁きは、何かを必死に訴える“声”なのではないか、と。 ミツルは人々から悪夢の内容を聴取すると、そこにはある共通点が浮かび上がった。悪夢に繰り返し登場するある場所。それは、政府管掌地であり市民の侵入は固く禁じられた施設だった。 ミツルは「ぬるり」の発生源を特定するため、過去の資料を漁る中で、かつてこの地下に「記憶を保存する」という名目で建設された実験施設があったことを知る。それは、人々の脳波を記録し、仮想空間で再生することを目的とした、禁断の研究施設だった。施設の記録を辿ると、最後に記録された映像に奇妙な記述があった。 「被験者、意識の統合を開始。これにより、全ての記憶は一つの塊となる」 直後、映像は乱れ、ノイズの隙間から、かすかな囁き声が混じる。それはまるで、統合された意識が、消えゆく前に最後の叫びを残そうとしているかのようだった。 ミツルは実験施設に侵入することを決意した。 三.永遠のぬるり そして、シェルターの混乱が極まる中、彼は悪夢が指し示す場所、つまりその実験施設の最深部へと向かった。そこにあったのは、脈動する巨大な「ぬるり」。無数の黒い球体が重なり合ってできた、禍々しい塊だった。その周囲には、かつての被験者たちの意識が形を成したような、半透明の人影が浮かび上がっていた。 そのとき、ミツルは悟った。「ぬるり」とは、統合された意識の亡霊――あるいは、その残骸なのだと。そして、あの悪夢は、閉じ込められた意識が発していた助けの信号だったのだ。 ミツルは巨大な「ぬるり」に手を伸ばした。 その瞬間、ミツルの脳裏に、この巨大な「ぬるり」の中に閉じ込められた数多の意識が流れ込んできた。それは、永遠に続く苦痛と、解放を求める無言の願いだった。 しかし、その苦痛の波の合間に、ミツルは過去の文明が築き上げた、豊かで刺激に満ちた生活の断片を見た。退廃し、砂に埋もれた自身の時代とは打って変わって、そこには色彩豊かな景色、歓声、そして無限の知識が溢れていた。それは彼にとって、あまりにも魅力的で心地よい世界だった。ミツルの意識は、その集合意識の深淵へと吸い込まれていく。 抗うことなく、彼は「ぬるり」の中に身を委ねた。 やがて、地下シェルターの人々は、悪夢に苦しみながらもミツルの帰還を待ち続けた。だが、彼が戻ることは二度となかった。 ミツルは「ぬるり」の内に溶け込み、永遠に続く幻影の中で、静かに、満ち足りた微笑みを浮かべていた。
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ぬるり005
一.ぬるりの伝え 昭和初期、まだ土の匂いが色濃く残る山間の村、九遠(くおん)村。そこには古くから奇妙な言い伝えがあった。夜闇に紛れて現れる黒い球形の物体、「ぬるり」。人の手のひらほどの大きさで、意思を持つかのように空中を漂うそれは、触れようと手を伸ばせばするりと指の間をすり抜け、決して掴めないそうだ。 かつて、村の子供たちが山の奥で遊んでいた際、一人の少年が「ぬるり」を見つけ、好奇心から追いかけていったという。少年が戻ってきたとき、彼は奇妙な変化を遂げていた。顔には生気がなく、何を問いかけても一切の言葉を発さず、ただ虚ろな目で宙を見つめるだけだった。「ぬるり」と接触した者は、口を閉ざし、まるで魂を抜き取られたかのように記憶を失ってしまう、と村に伝えられていた。 二.祖父のルーツを辿る 時が流れ、現代。都心から離れた郊外の町で、フリーランスのルポライターとして活動する加賀美(かがみ)は、今日も朝食を前に悩んだ。彼は長年、原因不明の摂食障害に苦しんでいたのだ。食事が喉を通らない日が多く、肉を前にしたときはそれが顕著となる。医師はストレス性だと診断したが、加賀美自身には心当たりがなかった。ただ、漠然とした飢餓感と、それに対する激しい拒否反応が、彼の日常を蝕んでいた。 ところで、加賀美の唯一の肉親であった祖父は、彼が物心つく前に、ある「奇妙な出来事」に巻き込まれて言葉を失ったという。その出来事の詳細は、祖父の曖昧な記憶と、わずかに残された村の古い記録からしか辿ることができなかった。加賀美は、祖父の故郷である九遠村に伝わる「ぬるり」の言い伝えが、その出来事と深く関わっているのではないかと推測していた。 加賀美は、祖父の足跡を辿り、九遠村の跡地へと向かった。そこはダムの底に沈んでおり、残されたのは資料館と、かつて村があった場所を見下ろす小さな展望台だけだった。資料館には、奇妙なことに「ぬるり」に関する記述はほとんど見当たらない。しかし、一枚の写真が加賀美の目を引いた。それは、幼い祖父と、口を閉ざしたままの村人たちが写った集合写真だった。皆、顔には生気がなく、まるで魂が抜けたかのようだ。加賀美は、写真に写る村人たちの瞳の奥に、得体の知れない恐怖が潜んでいるのを感じた。 三.蘇る記憶 展望台から、加賀美はダム湖を見下ろした。水面は不気味なほど静かで、まるで村の悲劇を隠し持っているかのようだった。その時、彼の目の前を、黒い球体が横切った。それは、間違いなく「ぬるり」だった。加賀美は反射的に手を伸ばしたが、ぬるりはするりと指の間をすり抜け、湖の底へと消えていった。 その瞬間、加賀美の脳裏に、かつてないほどの激しい頭痛が走った。そして、誰かの記憶が、鮮明な映像となって加賀美の脳内を支配した。 祖父の故郷である九遠村は、ダム建設を巡って政府に強く反抗していた。政府と村人との交渉は、長年膠着状態であったが、ある年、記録的な大型台風が村を襲い、唯一の幹線道路が土砂崩れで完全に封鎖された。通常であれば即座に復旧作業が始まるはずだったが、九遠村だけは違った。政府が、村への支援物資の搬入も、復旧作業も、意図的に滞らせたのだ。これは、村の反抗に対する政治的な報復だった。 食料も医薬品も底を尽き、孤立無援となった九遠村では、やがて飢えと病が蔓延し始めた。幼い子どもたちや年老いた者たちが、次々と命を落としていった。記憶の持ち主は、目の前で衰弱していく村人たちに、何一つ手を差し伸べることができなかった。 そして、ある夜のことだった。極限まで追い詰められた村人たちは、禁忌を破るという決断を下した。「それ」を口にすること。それは人として越えてはならない一線だった。だが、命をつなぐため、彼らはある肉を口にした。誰のものだったのか、誰も語らなかった。ただ、その事実だけが、重く村人たちの胸に沈殿していった。 翌朝、村人たちはついに政府に膝を屈した。村を明け渡し、道路が開かれ、物流が戻った。支援物資も届きはじめ、ようやく命の危機は遠のいた。だが、村に残ったのは深く消えない傷跡だった。 九遠村の記憶は、もはやただの郷愁ではなかった。飢餓と腐敗、そして沈黙の罪。それが村人たちの記憶を支配し、すべてを塗りつぶした。誰もが、あの日々を忘れたかった。 そのときだった。「ぬるり」の伝承が村に蘇ったのは。それは、苦しみを引き受け、記憶を水底へと沈めてくれるもの——。 村の片隅にひっそりと残されていた、苔むした祠が開かれた。そこで彼らは、かつて封じられた「ぬるりの器」を見つけた。中には漆黒の球体。闇よりも濃く、まるで水そのものが意思を持ったように脈打っていた。 その夜、村人たちは静かに集まり、一人ひとり、ぬるりに触れた。誰も言葉を交わさなかった。ただ、冷たい感触が指先を這い、心の奥底にまで染み込んでくると、胸の痛みが、徐々に霧のように薄れていくのを感じた。 朝になったとき、村には誰一人として残っていなかった。九遠村は、最後の集合写真一枚を残して、そのまま地図からも、人々の記憶からも、静かに消えていった。 四.悲劇を知って 加賀美の摂食障害は、この政治的な飢餓および犯した禁忌という、祖父の最も深いトラウマが原因だった。彼の体が無意識のうちに再現していたのは、九遠村の人々が経験した極限の飢餓と、それによって犯さざるを得なかった禁忌、そして深い絶望だった。特に、肉を前にしたときの激しい拒否反応は、村人が生命を繋ぐために口にした、ある「肉」への忌まわしい記憶が、祖父から加賀美へと受け継がれていたことに他ならなかった。 加賀美は、この悲劇を忘れてはならないと強く思った。九遠村がダムの底に沈み、人々の記憶からも消え去ろうとしていても、彼自身がその記憶を受け継ぎ、語り継ぐべきだと。彼は九遠村の資料館を出ると、ゆっくりと深呼吸をした。新鮮な空気が、これまで彼の体の中を澱ませていた何かを洗い流していくようだ。 その日の夕食、加賀美はいつもよりも多くの量を口にすることができた。完全ではないが、これまで感じたことのない穏やかな感覚が、彼の胃を満たしていくのを感じた。
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ぬるり004
一.幼馴染たち 平成の中頃、薄暮に染まる寂れた町。そこに暮らすごく普通の中学生、祐樹の日常は、ある日突然現れたぬるりによって変貌した。 それは、人の頭ほどの大きさの漆黒の球体だった。音もなく宙を漂い、触れようと手を伸ばすと、まるで水の中を泳ぐかのようにぬるりと指の間をすり抜ける。誰もがそれを幽霊のようなものだと思い込み、気味悪がりながらも日常の片隅に押しやった。 それから、町中で不可解な出来事が頻発するようになる。大切にしていたものが突然消えたり、見覚えのない場所に現れたり。そして、その現象の傍らには必ずぬるりが浮遊していた。 祐樹には、健一と彩香という二人の幼馴染がいた。三人いつも一緒で、くだらないことで笑い合ったり、時には些細なことで喧嘩したりと、かけがえのない日々を過ごしていた。祐樹も健一も、秘かに彩香に惹かれていたが、その気持ちを口に出すことはなかった。 そんなある日、彩香が忽然と姿を消した。原因は全く分からず、警察も介入したが手掛かり一つ掴めない。前触れもなく、まるで最初から存在しなかったかのようだった。学校中が騒然とする中、祐樹はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。頭では何が起きたのか理解しようとするが、心がついていかない。彩香の笑顔、声、隣にいた温もり――すべてが蜃気楼のように感じられれ、周囲にはぬるりが漂っていた。 二.幼き日の欺瞞 その日の夕方、憔悴しきった様子の健一が祐樹の家を訪ねてきた。顔は青ざめ、目の下には深いクマが刻まれていた。 「頼むから……お前だけは、いなくならないでくれ」 震える声でそう懇願する健一の目には、涙が溢れていた。普段は冷静で、どこか飄々としていた彼が、子どものように弱さをさらけ出していた。祐樹は何も言えず、ただ無言で、友の肩を強く抱きしめるしかなかった。 ふと、その時だった。健一が祐樹の部屋の隅で、埃をかぶった古びた玩具を見つけた。 「これは……懐かしいな。おれが昔、お前にあげたやつじゃないか。友情の印として……」 祐樹はその玩具に目を奪われた。確かに、これは――子どもの頃、彼が何よりも大切にしていた物だ。しかし、彼はその玩具を「失くした」と思い込んでいた。いや、実際には……隠したのだ。 記憶が一気に押し寄せてきた。あの日の夕暮れ。ヒロキという新しい友だちに心惹かれはじめ、健一との間に微妙な距離が生まれていた頃。祐樹は、健一からもらったその玩具を、あえて物陰に隠したのだ。「もう健一のことなんてどうでもいい」と、自分に言い聞かせながら。 だが、隠したはずのその玩具が、今、目の前にある。しかも、その傍らには、漆黒の球体――重力すら捻じ曲げそうな、深淵のような存在が、空中に浮かんでいた。 そして、祐樹は思い出した。 あの日。玩具を隠した瞬間、確かに“ぬるり”とした何かが、視界の端に現れたのを――。黒く、形を持たず、ただそこに「在る」だけの異質な存在。まるで、心の闇を映す鏡のように。 「あれは……俺が“失くしたい”と願ったものを、具現化していたのか?」 三.ぬるりの正体 ぬるりは、最初から祐樹の中にいた。彼が幼い頃から抱いていた、誰かの大切なものを「ぬるり」と消してしまいたいという、形のない悪意の塊。それが、成長するにつれて肥大化し、現実の世界にその姿を現したのだ。町で起こる不可解な現象も、人々が心の中で密かに「消えてしまえばいい」と願ったものが具現化した結果だった。 そして、祐樹の脳裏には、数日前に目撃した光景がよみがえっていた。それは、彩香が、祐樹の親友である健一に笑顔で話しかけ、ほんの少し赤らんだ頬で健一にプレゼントを渡していた姿。その光景を目にした瞬間、その傍らには、いつもより大きく脈打つぬるりが浮遊していたことを、祐樹は鮮明に覚えていた。 祐樹は鏡を見た。そこには、漆黒の瞳を持つ自分が映っていた。その瞳の奥には、小さな、しかし確かに存在するぬるりが、静かに蠢いているように見えた。
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ぬるり003
一.ぬるりの救い 闇夜に溶け込むような墨色の球体。それが現れたのは、江戸も末期、とある寂れた長屋の片隅であった。人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。手が届くかと思えば、その瞬間に空気を滑るように消え、また別の場所で姿を現す。まるでそこに実体がないかのような、掴みどころのない存在。 長屋に住まうお浪は、日雇いの洗濯で細々と生計を立てていた。夫は博打狂いの挙げ句、数年前に姿を消した。残されたのは病弱な娘、お鈴。お鈴の病状は悪化の一途を辿った。高熱に魘され、幻を見る。医者からは手の施しようがないと言われ、お浪は絶望の淵に沈んだ。ある夜、お浪がお鈴の咳き込む声に目を覚ますと、枕元に「ぬるり」が浮遊していた。思わず手を伸ばすも、するりと躱された。 そんな折、お浪は奇妙な噂を耳にする。「ぬるり」に触れた者は、その魂の一部を奪われるという。しかし、別の噂もあった。「ぬるり」に触れた者が、失ったものを取り戻したという話も。お浪は藁にもすがる思いで、「ぬるり」を追い始めた。 ある日、お浪が洗濯物を干していると、「ぬるり」が目の前を横切った。今度こそと、渾身の力で手を伸ばす。すると、これまでとは違い、確かに手のひらに柔らかい感触があった。しかし、その瞬間、お浪の視界は真っ白に染まり、意識が途絶えた。 次に目を覚ますと、お浪は布団の中にいた。傍らでは、お鈴が穏やかな寝息を立てている。額に触れると、熱はない。信じられない思いで医者を呼ぶと、医者は首を傾げながらも、「奇跡だ」と呟いた。お浪は安堵に涙した。お鈴が回復したのは紛れもない事実だった。 しかし、お浪の安堵は長くは続かなかった。お鈴の病は癒えたものの、お浪自身が少しずつ変化していくことに気づいたのだ。まず、身体が異常に冷え込むようになった。そして、鏡を見るたびに、自分の顔が少しずつ、だが確実に、痩せこけていくように感じられた。さらに恐ろしいことに、時折、お浪の記憶が薄れるようになった。夫の顔が思い出せない。洗濯物の干し方がわからない。お浪は、自分の魂が少しずつ「ぬるり」に吸い取られているのではないかと、戦慄した。 二.魂のうつろい ある夜、お浪はふと、お鈴の枕元に「ぬるり」が浮遊しているのを目撃した。しかし、それは以前見たものとは少し違っていた。以前よりも、ほんのわずかに、大きい。そして、お浪の体は、その「ぬるり」へと吸い寄せられるかのように、ゆっくりと、しかし確実に傾いていく。お浪は抗おうとした。だが、身体はいうことを聞かない。 まるで透明な糸に引かれるように、お浪の意識は「ぬるり」へと吸い込まれていく。その瞬間、お浪はかつて経験したことのない、激しい光に包まれた。視界が真っ白になり、何も見えなくなる。そして、次の瞬間、まるで深い水底から浮上するように、お浪は息を吸い込んだ。 ゆっくりと目を開けると、そこは慣れ親しんだ長屋の天井だった。しかし、何かが違う。自分の手を見つめる。それは、以前よりもずっと小さく、細い。まるで、幼い子供の手のようだった。傍らを見ると、布団が盛り上がっている。そこには、うっすらと開いた目で天井を見つめる、自分自身の姿があった。 その身体は、以前よりも一層痩せこけ、肌は蝋のように冷たかった。まるで、生気というものがそこから完全に失われたかのように。お浪は、その光景を理解するのに時間を要した。お鈴。これは、お鈴の身体だ。そして、横たわるのは、自分自身の亡骸。 すべてを悟った瞬間、お浪の胸に激しい後悔と、底知れぬ絶望が押し寄せた。お鈴を救うために触れた「ぬるり」は、お浪の魂をお鈴の身体に移したのだ。お浪は、お鈴の生命を取り戻したいと願ったが、お浪がお鈴の人生を奪い去ろうなどとは望んでいなかった。お鈴の魂はどこに消えたのだろうか?その罪は、代償というにはあまりにも重いものであった。 お浪は、小さくなった手で自分の顔を覆い、静かに涙を流した。しかし、その涙は、お鈴の小さな身体を震わせるだけで、誰もその悲しみに気づくことはなかった。
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ぬるり002
一.触れられぬ存在 夜の闇が帳を下ろす頃、古びた団地の薄暗い一室で、テレビの砂嵐だけが唯一の話し相手だった彼女は、それを見た。 「ぬるり」と音もなく現れたそれは、ガラス玉ほどの漆黒の球体。光沢があるが、不気味なことに何の反射も見られない。恐怖よりも好奇心に突き動かされ、恐る恐る手を伸ばす。触れる寸前、球体は微かに揺らめき、まるで水の中を泳ぐ魚のように、ぬるりと彼女の指の間をすり抜けた。掴めない。存在しているのに、掴めない。日頃から誰にも必要とされていないと感じていた彼女にとって、その奇妙な存在は、むしろ刺激的ですらあった。 翌日から、「ぬるり」は彼女の日常に現れるようになった。眠る枕元、料理中の背後。常に視界の端にあり、しかし決して触れることはできない。まるで彼女の孤独に寄り添うかのように、あるいは孤独を餌とするかのように、それはただそこに存在し続けた。彼女は「ぬるり」が心の拠り所となっていた。 しかしその存在は、客観的には彼女の心身を蝕んでいったようだ。睡眠は浅くなり、食欲は失われ、唯一たまに話すのあった団地の自治会員からの連絡さえ、彼女は取ることをしなくなった。 心配した彼は、彼女の部屋を訪ねた。彼女は「ぬるり」の存在を熱弁したが、「ぬるり」は自分にしか見えないようだ。「妙なことを言い出した」と、彼は落胆した。それは彼女をさらに深く、見えない壁の中に閉じ込めた。彼女は孤立感を深め、次第に狂気に陥っていく。 「私だけが見えているのよ! 私だけが……!」 二.継承 数ヶ月後、団地の住人からの通報で、彼女の変わり果てた姿が発見された。死因は衰弱死。検視官の一人は首を傾げた。彼女の遺体の隣に、漆黒のガラス玉が落ちていたのだ。ビー玉ほどの大きさで、何の反射もない。検視官が手を伸ばすと、ぬるりと指の間をすり抜け消え去った。 この日を境に、検視官の日常は一変する。夜な夜な部屋の隅に現れるその漆黒の球体「ぬるり」は、次第に彼の視界に頻繁に現れるようになる。職場でも街中でも、誰も気づかない「ぬるり」の存在は、彼と周囲との間に見えない壁を築いていった。 彼は眠れなくなり、食欲も失っていった。ある晩、鏡に映った自分の顔を見て、彼はゾッとした。そこに映っていたのは、憔悴しきった、あの団地の彼女と瓜二つの顔だった。 ある雨の日の深夜、検視官は自宅のベランダに立っていた。彼の目の前に、これまでで最も巨大なぬるりが現れた。それは彼を包み込むかのように大きく、周囲の光を全て吸い込んでいるかのようだった。 彼は震える手で、ゆっくりと「ぬるり」に触れようとした。指先が、その漆黒の表面に触れる寸前。検視官の視界が歪み、世界がねじれていく。彼の全身から力が抜け、意識が遠のく。最後に感じたのは、体の内側から、温かい何かがぬるりと彼の喉元を這い上がり、口から零れ落ちていく感覚だった。 三.終わりと、 翌朝、検視官は自宅から姿を消した。彼の部屋に残されたノートには、震える筆跡で、たった一言だけ記されていた。 「私も、ぬるりになった。」 そしてそのノートの隣に、もう一つ、別のメモがあった。それは、まるで子供の落書きのような稚拙な文字で書かれていた。 「ありがとう。これで、わたしもひとりじゃない。」 そのメモのそばに、あの団地の彼女の部屋で見つかったのと同じ、漆黒のガラス玉が、まるでそこにずっとあったかのように静かに転がっていた。
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ぬるり001
一章 漂う影 昭和三十年、田舎町。蝉の声が降り注ぐ午後、私は縁側で冷えた麦茶を啜っていた。隣では、縁側に腰掛けた妻が、縫い物の手を休めてふと空を見上げている。「あなたも少しは休んだらどう? いつも仏頂面ばかりじゃ、シワが増えるわよ」。彼女の優しい声に、私は曖昧に頷いた。しかし、その直後、視界の隅を黒い何かが横切った。初めは鳥かと思ったが、それは空中でぴたりと静止した。 直径三十センチほどだろうか、漆黒の球体。表面は光を吸い込むように鈍く輝き、まるでそこに空間の穴が空いているかのようだった。好奇心に駆られ、ゆっくりと手を伸ばす。指先が触れる直前、それは「ぬるり」と音もなく滑り、私の手のひらをすり抜けた。掴めない。まるでそこに存在しないかのようだ。妻に話しても、彼女は首を傾げるばかりだった。「一体何を言っているの? ここには何もいないじゃない」。 二章 浸蝕 「ぬるり」は私にしか見えないようだった。家族に話しても、気のせいだと笑われた。しかし、私の中の「ぬるり」の存在感は増していく。夜になれば枕元に浮かび、夢の中にまで現れるようになった。 しかし、私は「ぬるり」が見えることを誰にも言えなかった。もし私が「ぬるり」に憑かれていると知られたら、狂人扱いされるだろう。戦争で心まで病んだのだと、そう言われるのが怖かった。すでに多くのものを失い、これ以上、自分という存在が損なわれることに耐えられなかった。 終戦から十年。瓦礫の山だった町は、少しずつ形を取り戻し、人々も明るさを取り戻しつつあった。しかし、私だけは、あの日の記憶から抜け出せずにいた。焦土と化した故郷、目の前で崩れ落ちる家屋、そして、もう二度と帰らぬ家族の顔。彼らの声も、匂いも、日ごとに薄れていくのに、あの時の絶望だけは鮮明だった。私は生き残ってしまった。それが、時に耐え難い重荷となってのしかかる。 ある夜、夢の中で「ぬるり」は、ぼんやりとした光を放ち始めた。その光は、まるで遠い記憶の残像のように揺らめき、そして、一瞬だけ、兄の笑顔が浮かび上がったように見えた。 私は飛び起きた。全身から汗が噴き出し、心臓が激しく脈打つ。兄は、空襲の夜、私を庇って死んだ。その時、最後に見た兄の顔は、苦痛に歪んでいたはずだ。だが、夢の中の兄は、まるで昔のように穏やかに笑っていた。 「ぬるり」は、私の失われた記憶を呼び覚まそうとしているのか? それとも、ただ私の心の隙間に入り込もうとしているだけなのか? どちらにしても、私はその漆黒の球体から目が離せなくなっていた。 三章 共鳴する過去 あの日以来、私の日常は少しずつ変容していった。漆黒の球体は、もはや恐怖の対象ではなかった。それは、まるで失われた記憶の断片を繋ぎ合わせる、不可思議な案内人のようだった。昼夜を問わず、私の傍らに漂い、時には夢の中に深く潜り込み、忘却の淵に沈んでいた光景を鮮明に蘇らせる。 ある日の午後、縁側でうたた寝をしていると、またも「ぬるり」が目の前に現れた。いつもより強く光を放ち、その中に歪んだ景色が映し出された。それは、焼け焦げた町、崩れ落ちた家々、そして、煙の中から立ち上る黒い渦――あの空襲の夜の光景だった。しかし、決定的に異なるのは、そこに私自身の姿がなかったことだ。その時、「ぬるり」から声が響いた。 「お前も、こちらへ来い」 その言葉は、私の中にずっと燻っていた罪悪感を抉り取った。なぜ、私だけが生き残ってしまったのか。なぜ、愛する家族は死に、私だけがこの苦痛を味わい続けなければならないのか。私は、怒りと悲しみ、そして自己への嫌悪がないまぜになった感情に支配された。 妻は、そんな私の異変に気づいていたのだろう。心配そうな眼差しで私を見つめるばかりだった。 四章 終戦記念日の朝 昭和三十年八月十五日。蝉の声は、この日も降り注ぐ。私は縁側で、冷えた麦茶を啜っていた。隣には、「ぬるり」が静かに漂っている。しかし、この日の「ぬるり」は、いつもと違っていた。これまでとは比べ物にならないほど強く輝き、その表面には、信じられない光景が映し出されていた。 それは、終戦間近の日本の風景だった。しかし、そこに空襲の痕跡はなかった。焼け焦げた建物も、瓦礫の山もない。人々は穏やかな表情で、町は平和そのものだった。そして、その光景の中に、若き日の両親と、笑顔の兄の姿があった。彼らは、まるでこれから起こる災厄を知らないかのように、楽しげに笑い合っている。 「ぬるり」から、再び声が聞こえた。しかし、それは、これまでのように私の心を抉るような声ではなかった。それは、まるで優しい囁きのように、私の脳裏に響き渡った。 「お前は、ここで生きろ」 その甘言につられ、私はつい手を伸ばした。次の瞬間、漆黒の球体は激しい光を放ち、私の視界は真っ白に染まった。 そこには、これまで見慣れたはずの田舎町があった。しかし、そこには、戦後の傷跡が一切なかった。真新しい家々が立ち並び、道行く人々は皆、明るい表情で挨拶を交わしている。そして、町の中心には、あの巨大な爆弾が落ちたはずの場所に、平和な広場が広がっていた。 私は、呆然と立ち尽くした。これは、一体どういうことなのか。「ぬるり」が私を、終戦直前に巨大な爆弾が落ちなかった世界へと連れてきたのか? 私は、夢の中にいるのか? その時、背後から優しい声が聞こえた。 「お兄ちゃん、遅いよ! みんな待ってるんだから!」 振り返ると、そこに立っていたのは、あの頃と変わらない、若き日の兄だった。彼は、あの空襲の夜に失われたはずの命を、今、この平和な世界で生きている。私は、思わず兄の頬に触れた。温かい。確かにそこに存在する。私は、溢れる涙を拭いもせず、ただひたすらに、兄の顔を見つめていた。 五章 残された者 縁側で縫い物をしていた妻は、隣にいたはずの夫がいないことに気づいた。日差しが傾き、夕闇が迫る。家の中を探すが見当たらず、玄関の下駄から外出していないことを察した。庭に出ると、不穏な静けさが漂い、虫の声だけが大きく聞こえた。 「どこへ行ってしまったの…」 妻の呟きは誰にも届かず、夏の終わりの空に吸い込まれていった。彼女の知る夫は、もう二度と、その縁側に戻ってくることはないだろう。