Category: 和製ホラー、怖い話、怪談、都市伝説
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ぬるり018
一.クラウド上の記憶 平成の終わり、とある地方都市。深夜のコンビニエンスストアでアルバイトをする大学生の修平は、その日、奇妙なものを目撃した。店の裏口でゴミを捨てようとした時、空中に浮かぶ、真っ黒な球体。大きさはバスケットボールほどで、表面は漆黒の闇を凝縮したかのように、一切の光を反射しない。 「なんだ、あれ?」 修平が恐る恐る手を伸ばすと、球体はまるで意思を持つかのように、ぬるりと横に滑った。何度か試しても、触れることはおろか、風さえ感じない。それはそこに存在しながら、存在しないかのように修平の指をすり抜けていった。その日から、修平の日常に「ぬるり」が忍び寄るようになった。 最初はただ浮いているだけだった「ぬるり」だが、やがて不気味な現象を引き起こし始める。ある日、修平は友人の名前を思い出せなくなった。次に、大学の授業内容が頭から抜け落ちた。そして、ついには自分の家族の顔さえも曖昧になっていく。 記憶の喪失は、日を追うごとに加速していく。修平は焦った。しかし、修平がスマートフォンで「家族 名前」と検索すると、画面には母や妹の名前が表示され、彼らの顔写真まで出てくる。友人の名前を検索すれば、その友人のSNSプロフィールが瞬時に表示された。まるで、自分の失われた記憶が、インターネット上に保管されているかのようだった。 「ぬるり」による記憶の侵食が加速する一方で、修平は奇妙な事実に気づき始めた。失われたはずの記憶が、インターネット上には明確な形で残されている。まるで自分の脳から吸い出された情報が、クラウド上にバックアップされているかのようだ。 ある日、修平は高校時代の友人との再会を控えていた。しかし、彼の顔も名前も思い出せない。「ぬるり」がすぐそばを漂っている。修平は意を決して、スマートフォンの検索窓に「高校 友人」と入力した。すると、画面にはまぎれもなくその友人の名前と、彼の顔が写った集合写真が表示された。修平は写真を見つめ、少しずつ記憶をたぐり寄せようとした。 友人との再会は、ぎこちなかった。「久しぶり」と声をかけられ、修平は反射的に「久しぶり」と返したが、心の中では「この人は誰だ?」という疑問が渦巻いていた。友人が語る高校時代の思い出話を聞くが、まるで誰か他人の人生を聞いているようだった。言葉は耳に入ってくるのに、感情が追いつかない。スマートフォン無しでは、自分の過去は失われてしまった。 二.同期完了 ある晩、修平はアパートの部屋で、大量の検索履歴が残るスマートフォンを握りしめていた。自分の家族の顔、友人との思い出、大学での講義内容。すべてがインターネット上にある。修平は、インターネットを通してしか自分自身を認識できなくなってしまった。 その時、「ぬるり」が修平の目の前で、これまでになく強く脈動した。その振動は、修平のスマートフォンからも、かすかに同調するような音が聞こえてくる。スマートフォンの画面が、まるで「ぬるり」の表面のように漆黒に染まり、その中央に、進捗バーが浮かび上がった。進捗バーは、0%からカウントをはじめ、100%を目指してゆっくり伸びていった。 進捗バーがゆっくりと伸びていく間、修平の脳は急速に回転していた。進捗バーはじわじわと進んでいく。5%、12%、18%……。そのたびに、走馬灯のように断片的な記憶、笑い合った友人の顔、食卓を囲んだ家族の声、講義室のざわめき……あの時思い出せなかった記憶が、ぐるぐると修平の脳を駆け巡った。 やがて、進捗バーが100%に到達した。その時、 「修平:クラウドへ同期完了しました」 と表示されたスマートフォンだけを残して、部屋には誰の姿も無くなっていた。
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ぬるり017
一.ぬるりの文様 春も終わりに近づいた、やや蒸し暑い日の夕暮れだった。僕は、いつものように公園で友達と遊んでいた。日常の音の中に、それは突然現れた。 地面から数センチ浮遊する、掌サイズの黒い球体。まるで墨を溶かしたかのような、何の変哲もない、ただ真っ黒なそれ。僕たちは興味津々で近づいた。 「なんだこれ?」 先に手を伸ばしたのは、好奇心旺盛な友人だった。指先が触れようとした瞬間、それは「ぬるり」と音もなく横に滑り、彼の手をかわした。 その日以来、「ぬるり」は僕たちの間でちょっとした話題になった。近所の公園だけでなく、通学路、神社の境内、果ては僕の家の庭にも現れるようになった。最初は面白がっていた僕たちも、次第にその不気味さに気づき始めた。 ある日、いつも元気なサクラが学校を休んだ。連絡網で回ってきたのは、「高熱でうなされている」という情報だった。その日の夕方、僕はサクラの家の前を通った。二階の窓に、あの黒い球体が張り付いているのが見えた。 次の日、サッカー部のエースであるタケシが練習中に突然倒れた。病院へ運ばれても原因不明。僕がタケシの家の前を通ると、やはり窓に「ぬるり」が張り付いていた。 「ぬるり」は、それに触れようとした者の生気を吸い取る。 そして、ついにその日は来た。母親が、朝からひどく気分が悪そうだった。その日の夕方、僕は自分の部屋の窓に、あのぬるりが張り付いているのを見てしまった。心臓が凍りついた。 僕は母親を守らなければ。その一心で、僕は「ぬるり」に手を伸ばした。何度も何度も、触れようとしてはすり抜ける。焦燥感が僕を支配する。その時、僕はふと、いつもと違う感覚に気づいた。 「ぬるり」は、僕の右手を避ける。しかし、左手には反応しない。 僕は左手をゆっくりと「ぬるり」に伸ばした。すり抜ける感覚はない。そして、指先が、確かに「ぬるり」に触れた。 ぐにゅり、と得体の知れない感触が左手に伝わる。僕はそれを掴んだ。 その瞬間、僕の左手は、まるでインクの中に浸したかのように真っ黒に染まった。「ぬるり」は、僕の掌の中で泡のように消えていく。そして、消えたはずの「ぬるり」の痕跡が、僕の左手の甲に、まるで墨で描かれた文様のように浮かび上がった。 翌日、母親はすっかり元気になっていた。しかし、僕の左手は、あの日のまま、黒い文様が刻まれていた。そして、僕の周りから、「ぬるり」の姿は消えた。 二.二十年後 20年後、彼は32歳になっていた。あの日の出来事は、彼にとって遠い記憶の彼方に追いやられ、左手の甲に残る黒い文様も、単なる奇妙な痣として受け入れていた。医師からは「原因不明の皮膚の色素沈着」と言われ、特に生活に支障もなかったため、気にすることもなかった。 しかし、最近、ある奇妙な変化が起き始めていた。ここ数ヶ月で、左手の黒い文様が、僅かに、しかし確実に広がっていることに気づいた。最初は気のせいだと思っていたが、日に日にその範囲は広がり、まるで墨汁を垂らしたかのように、彼の腕を這い上がろうとしている。 ある晩、彼は悪夢で目が覚めた。夢の中では、あの「ぬるり」が、無数に、どこまでも広がる闇の中で蠢いていた。そして、その一つ一つが、左手の文様と同じ形をしていた。そして翌朝、彼の左腕の大部分は、完全に漆黒の文様に覆われていた。 その日の午後、彼はひどい頭痛に襲われた。視界がぼやけ、平衡感覚が失われる。意識が遠のきかけたその時、彼は自分の体から、あの黒い球体が、いくつも、いくつも、ふわふわと飛び出してくるのを見た。 「ぬるり」は消えていなかった。あの日、彼が掴んだことで、それは体内に取り込まれ、20年の歳月を経て、再び新たな形で世界に解き放たれようとしているのだ。
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ぬるり016
一.穴だらけのカレンダー 僕が初めて「ぬるり」に出会ったのは、ちょうど奇妙なカレンダー事件が起こるときと同じだった。それはまるで、闇が凝縮されたような、手のひらサイズの黒い球体。宙を微かに漂い、僕が手を伸ばすと、ぬるりと空気のようにすり抜けた。掴めない、でも確かにそこにあった。 最初は気のせいだと思った。けれど、ある朝、目にした日めくりカレンダーの日付が、一日ずれていることに気づいた。今日は確かに火曜日だったはずなのに、カレンダーは水曜日を指している。僕の記憶には火曜日の出来事がすっぽり抜け落ちていた。まるで、その一日が存在しなかったかのように。 「ぬるり」を見るたびに、この現象は起こった。最初は一日、次に二日。やがて、僕の日常は穴だらけになった。週の半分が、僕の知らないうちに過ぎ去っていく。家族や同僚との会話も噛み合わないことが増えた。彼らは僕が経験していない「昨日」の話をする。僕だけが、時間から取り残されているようだった。意識が途切れる感覚はない。ただ、あるはずの時間が、そこにはないのだ。 次第に、僕の認識していない日が、僕が認識している日を、遥かに上回った。二度と目覚めなければどうしよう。このまま、僕の意識は、いつか完全に消え去ってしまうのだろうか。自分が溶けて、存在そのものが曖昧になるような、底知れない恐怖が僕を支配した。 二.ある男の人生 ある男は「ぬるり」に出会って、人生が変わった。それは、掌ほどの大きさの、揺蕩う漆黒の球体。触れようとすると、球体はまるで意思を持つかのように、ぬるりと滑り、掴めないものだった。 男の人生は、ずっと夢の中にいるようだった。漠然とした不安、常にどこかぼやけた視界。しかし、ある日、奇妙な黒い球体、「ぬるり」を見たときから、男は明確に覚醒するようになった。 「ぬるり」を見るたびに、覚醒する。最初は数日に一度。やがて頻度は増し、男は週の半分を、はっきりと目覚めて過ごせるようになった。視界は鮮明になり、思考は明晰。かつて夢のように曖昧だった世界が、色鮮やかに、そして確固たるものとして目の前に現れた。 「ようやく、俺は生きている!」 男は喜びを隠せない。夢の中でしか生きられなかった自分から解放されたのだ。家族や同僚との会話も心から楽しめるようになった。失われたと思っていた時間を取り戻したかのように、彼は毎日の出来事を、はっきりと記憶し、五感で味わうことができた。 「ぬるり」を見る頻度はさらに増し、ついに男は、毎日を完全に覚醒して過ごせるようになった。彼は「ぬるり」に感謝した。世界がこんなにも鮮やかだなんて。自分は最高の人生を送っている、と心から信じることができた。 三.ハッピーエンド その男は僕だった。男が得た世界は、実は僕が失った時間によって構築されたものだったのだ。「ぬるり」は、僕から時間を奪い、その奪われた時間の中で、もう一人の僕を覚醒させていたのだ。 その後も僕は永遠に、目覚めることはなかった。僕が失った日常を、彼は永遠に享受しつづけた。僕の人生は、彼にとってのハッピーエンドとして消費されていった。
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ぬるり015
一.狂絵師、新五郎 時は文政。江戸の片隅に、古びた長屋がございました。そこに住まうは、絵師の新五郎と申す男。近頃、得体の知れぬ怪異に悩まされておりました。夜な夜な現れるは、漆黒の球体。墨を固めたように真っ黒で、しかし朧(おぼろ)げに光を放ち、宙を漂うておる。新五郎が手を伸ばせば、ぬるりと肌を滑り抜けて、掴むこと叶わず。その度ごとに名状し難き恐怖が彼を襲うたのでございます。 ある夜、新五郎はいつものように絵筆を握っておりました。されど、どうにも筆が進まぬ。あの「ぬるり」の残像が脳裏をちらつき、集中できぬゆえ。その時、ふと自身の筆跡に違和感を覚えました。描いた覚えのなき、奇妙な螺旋(らせん)や、おぞましき目玉のような模様。そして絵が完成すると、絵の中の目がぎょろりと動き、部屋に充満しておった墨の匂いは、たちまち腐臭へと変わりました。吐き気を催すほどの悪臭に、新五郎は思わず絵筆を取り落としたのでございます。 その日を境(さかい)に、新五郎の周りでは不可解な出来事が頻繁に起こり始めました。新五郎が描きしは、名高き歌舞伎役者・片岡華之丞(かたおか はなのじょう)の肖像画。その絵が、時間の経過とともに徐々に老いてゆくことでございます。皺(しわ)が刻まれ、肌は弛(たる)み、生気なき目になってゆく。さらに恐ろしゅうございましたのは、本物の華之丞にも、同じように皺が刻まれ、肌が弛み、生気なき目になってゆくことでございます。あたかも絵に描かれた者の命が、少しずつ吸い取られているかのようであったと申します。 新五郎は悟りました。この「ぬるり」と申すは、絵を通じて人の生気を吸い取る、呪われた存在なのだと。そして、自分が描く絵がその媒体となっていることに、彼は深く絶望したのでございます。 二.孤独の果てに 呪いの正体を知りて以来、新五郎は閉じこもるようになりました。町の者たちも、彼を不吉なものとして避けて通ります。もとより新五郎は孤独な身の上。前の大火にて両親も、そして最愛の妻も失い、たった独りでこの長屋に暮らしておったのです。彼の日課と申せば、ただただ絵を描き、その絵と対話することのみ。それ以外に変わらぬ日々を送っておりました。 ある日のこと。彼は一つの思いつきに辿り着きました。もし自分の筆が生者の命を奪うのであれば、死者を描いたならば、一体どうなるであろうか、と。 その閃きに従い、新五郎は筆を執りました。描いたのは、すでに黄泉(よみ)の国へと旅立った、最愛の妻の肖像画でございます。愛しき面影を屏風に写し終えると、不思議なことに、絵の中から確かに妻の声が聞こえてきたのでございます。 「あなた、まだ、ここにいてくださったのですね…」 新五郎は夢中で語りかけました。妻に伝えられなかった感謝の言葉、果たせなかった約束、そして孤独な日々を。妻もまた、彼に応えるかのように語りかけてくる。その温かい声に包まれ、新五郎はこれまでの孤独が嘘のように消え去るのを感じました。彼は幸せでございました。もう、独りではなかったのです。 三.魂の混濁 さような平穏な日々がしばらく続いた、ある日のこと。彼の長屋を訪問者が訪ねてまいりました。戸口から中を覗き込んだ訪問者は、思わず息を呑みます。 部屋の中では、新五郎が虚ろな目で宙を見つめ、独り言をずっと呟(つぶや)いているではございませぬか。彼の口から紡がれる言葉は、時折、女の声に変わる。それは、新五郎自身が語っているようで、しかし明らかに異なる言葉遣いや声色を帯びておりました。 さよう、新五郎自身に、最愛の妻の魂が憑依(ひょうい)してしもうたのでございます。彼は妻と対話しているのではない。彼の肉体は妻の魂に乗っ取られ、彼の精神は、妻の記憶と感情に深く侵食されておりました。 新五郎は、狂い果ててしもうたのです。 彼の瞳に宿る光は、もはや絵師としての鋭さではなく、か細き狂気と、そして二つの魂が混じり合った、混沌とした光でございました。彼は、永遠に妻との対話を続けるかのように、ただ独り、薄暗き長屋で呟き続けておりました。その傍に、ぬるりとした黒い球体が転がっていたとか、いないとか。 これにて、絵師・新五郎の哀しき物語は幕を閉じるのでございます。
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ぬるり014
一.ぬるりとともに現れる不幸 昭和の終わり、ある町。小学四年生の美咲は、裏山の神社で奇妙なものを見つけた。それは、人の頭ほどの大きさの、漆黒の球体だった。表面は滑らかで、光を吸い込むように鈍く輝いている。好奇心から手を伸ばすと、それはまるで煙のように、するりと指の間をすり抜けた。 「ぬるり……」 美咲は、その奇妙な感触と、得体のしれない存在に名を与えた。それからというもの、「ぬるり」は美咲のそばを漂うようになった。学校に行く時も、友達と遊ぶ時も、まるで影のように美咲の後をついてくる。 美咲は、学校が少しだけ嫌になっていた。昔は無邪気に笑いあえた友達。今は何となく距離を感じてしまうのだ。友達に「ぬるり」の話をしたが、誰もその存在に気づかない。美咲が指差しても、友達はちょっと馬鹿にした口調で、そんなのいるわけないじゃん、と嘲笑った。私は、そうだよね!とわざと笑顔を作って言った。 ある日、美咲の飼っていた金魚が死んだ。水槽の底で横たわる金魚の横に、「ぬるり」が静かに浮かんでいた。母に言っても、あんたがちゃんと世話しないからでしょう、捨ててきなさい、と言われ、泣く泣く公園へ埋めてきた。 その翌日、美咲の祖父が病で倒れる。その枕元にも、「ぬるり」がいた。母は、祖父を好きじゃなかった。あーあ、あの人をまた病院に連れて行かなきゃいけない、あんな人、早くいなくなればいいのに。と母がつぶやき、美咲は嫌な気持ちになった。でも、美咲はそうだよね、早くいなくなればいいのに、と母に同調した。 美咲は一人になって、自己嫌悪とともに、分析した。「ぬるり」が現れると、必ず不幸が起きるのだ。しかし、その因果関係を誰にも説明できない。美咲は恐怖に震えながらも、「ぬるり」から目を離せなかった。 二.老女ハルの教えた奇跡 不安と孤立の中、美咲は一人で古本屋を営む老女・ハルに出会った。ハルは美咲の話を真剣に聞いてくれた唯一の人物だった。美咲は最近の誰にも話せなかった悩みと、その傍には必ず「ぬるり」がいたことをハルに打ち明けた。 「あんたの見てるそれは、きっと『禍玉(まがたま)』だよ。触れると、大切なものと縁が切れるんだ。」ハルはそう言って、古びた書物を見せた。そこには、まさに「ぬるり」の姿が描かれ、様々な不幸の事例が記されていた。 ハルの助言に従い、美咲は「ぬるり」に触れないよう必死で避けるようになった。しかし、「ぬるり」はまるで美咲の感情を読み取るかのように、執拗に美咲の周りを漂う。ある晩、美咲は悪夢にうなされた。夢の中で、「ぬるり」は巨大な口を開き、美咲の大切なものを次々と飲み込んでいく。 翌朝、美咲は高熱を出した。朦朧とする意識の中、枕元に「ぬるり」が浮かんでいるのが見えた。私もみんなと縁が切れて死んでしまうのかな、と美咲は不安になった。しかし、それはいつもと違っていた。黒い球体の中に、かすかに、何か白いものが透けて見える。よく見ると、それは美咲がこれまで触れてきた、大切なものの“記憶”のような光の粒だった。金魚の鱗、祖母の皺、友達の笑顔。 美咲は、震える手で「ぬるり」に触れた。すると、あの滑らかな感触の奥から、冷たい、硬い芯のようなものがあることに気づいた。それは、ガラス玉のように透明で、中に白い光が閉じ込められている。同時に、美咲の頭の中に、ハルの声が響いた。「禍玉は、触れられることで、縁を『結び直す』ことができるんだよ」。 美咲の熱は嘘のように下がった。そして、「ぬるり」は姿を消した。美咲の祖母は奇跡的に回復し、金魚も新しい命を吹き込まれたかのように元気に泳ぎ出した。全てが元通りになったかに見えた。しかし、美咲の視点では、いくつかの違和感が残った。それは、金魚の模様が少しだけ違っていたこと、そして、ハルという老女の存在が、町の誰の記憶にもないことだった。 三.繋ぎなおす力 その日から、美咲は少しずつ、自分の「本当の気持ち」を言葉にするようになった。友達が話を馬鹿にしても、笑ってごまかすのをやめた。 「私は見たんだよ。黒くて、ぬるっとしてて……でも、怖くないの。」 最初は、また笑われるだけだった。でも、美咲の目が真剣なことに気づいたのか、やがて友達も話を聞くようになった。そして不思議なことに、美咲の話を信じる子が少しずつ現れた。 母親に対しても、勇気を振り絞ってこう告げた。 「おじいちゃんのこと、いらないとか言わないで。私、おじいちゃんと一緒にいた時間、楽しかったもん。金魚だって、私が名前つけたんだよ。忘れちゃったの?」 母親は目を伏せて、美咲に謝った。その日から、美咲と母の距離も、ほんの少しずつ変わっていった。母は祖父に優しく声をかけるようになり、美咲の話を真面目に聞いてくれるようになった。「ぬるり」の力で、たしかに「縁」がつながり直していくのが感じられた。 「ぬるり」が縁を切ってしまうのか、縁を繋ぎなおしてくれるのかは、自分次第なのかもしれない。そして、それは「ぬるり」が居なくても同じこと。そのように、美咲はこれからの長い人生で学んでいくことになるのだろう。
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ぬるり013
一.弱虫ミウ 美羽は、生まれたときから怖がりだった。夜、布団の中で聞こえる風の音にも怯え、テレビで見るホラー番組には一秒も耐えられずに泣き出していた。小学校の肝試しでは、真っ先に泣き崩れたことで「弱虫ミウ」という不名誉なあだ名がつき、しばらくクラスの笑い者だった。 年齢が上がるにつれ、周りには怖がりな自分を馬鹿にする人はいなくなった。だが、美羽は内心ずっと思っていた。臆病な自分を乗り越えて強くなりたいと。 二.ぬるりとの邂逅 大学に進学してから、美羽は新たな友人たちと出会い、その中の一人、心霊スポット巡りを趣味にする沙耶と親しくなった。沙耶は美羽の内なる「恐怖」と向き合いたいという気持ちを知ると、ある日こう誘った。 「美羽、私と一緒に廃病院に行かない? ちょっと変な噂がある場所なんだけど…なにか、感じるかもしれないよ」 廃墟マニアの間で密かに有名なその病院は、かつて無免許医が手術を繰り返し、複数の死亡事故があったとされる曰く付きの場所だった。美羽の心は大きく揺れた。怖い。でも、乗り越えたい。 その病院の奥にある手術室跡で、二人は異様なものを見つけた。空中に浮かぶ、漆黒の球体。光を吸い込むような黒。美羽は元来怖がりだが、その存在には不思議と好奇心を覚えた。沙耶が手を伸ばすが、球体はすり抜け、まるでそこに「あるのにない」ような感触だった。 「……ぬるり、って感じだね」 思わずこぼれたその言葉が、後にその球体のあだ名となった。 美羽が恐る恐る「ぬるり」に触れた瞬間、奇妙な感覚が全身を駆け抜けた。冷たくもなく、暖かくもない、存在の輪郭すら曖昧な何か。そして、心の奥深くにあった恐怖の「根」が、ふっとほどけていくような感覚だった。 三.ミウの変化 その日から、美羽は変わり始めた。夜道も怖くなくなり、不意の音に驚くこともなくなった。地下鉄での痴漢にも毅然と立ち向かい、感謝されることもあった。 友人たちは、口をそろえて「最近のミウは、まるで別人みたい」と言った。自信に満ち、笑顔も明るくなった彼女に、周囲の評価も上がっていった。美羽自身も「これが本当の私なのかもしれない」と思い始めた。 それからというもの、美羽は暇を見つけては「ぬるり」を探し、触れるようになった。その奇妙な球体に触れるたび、まるで見えない鎧が、自分を包んでいくようで、それが美羽にはうれしかった。 しかし、何も怖くないということは、何も感じないということだった。美羽はだんだんと平凡な日々に物足りなさを感じるようになっていった。かつては、物音、視線、夜の影――あらゆるものが脅威に思えた。だが今では、ただ退屈だ。何も怖くない自分が、本当に“生きている”と感じるためには、何が必要なんだろう。美羽は、そんなことを考えるようになっていた。 美羽と一緒に心霊スポットを巡った。山道を一人で歩いた。絶叫マシン。ビルの屋上。バンジージャンプ。色々な肝試しをした。しかし、作られたスリルでは、美羽の「飢え」は満たされないと感じていた。 四.快楽と恐怖 ちょうどその頃、美羽は自動車免許を取得したばかりだった。ある日、レンタカーを借りて、美羽がハンドルを握り郊外へと国道を走った。美羽は、運転するにつれ、ハンドルを握る爽快感を、だんだんと自覚し始めた。 助手席で不安そうに沙耶が尋ねた。 「美羽、初めての長距離運転だよね? ゆっくり行こう?」 しかし、美羽は笑って返した。 「うん、大丈夫。風に乗るだけだから」 そう言いながら、アクセルを深く踏み込んだ。エンジンが唸りを上げ、車は急加速した。スピードメーターはあっという間に100を超え、120、140、そして160kmにまで達した。 「ちょ、ちょっと待って、美羽、マジでやばいって! スピード出しすぎ!」 「大丈夫だよ、怖くない。」 沙耶の声は必死だったが、美羽の表情はどこかうっとりしていた。目の奥に、奇妙な熱が宿っていた。それは快楽に近い何かだった。 そして、漆黒の球体--「ぬるり」が、音もなく彼女たちの車の脇をすり抜けていった。車の速度はあまりに速く、それは誰にも気づかれることはなかった。 その時、道がカーブに差しかかる。美羽はほんの刹那、それに気づいていた。だが、ハンドルに触れる指は動かなかった。――どうなるか、試してみたい。との一瞬の欲望が、美羽にハンドルを固定させ、 次の瞬間、目前に白く錆びたガードレールが迫り、美羽は久しく忘れていた恐怖を (おわり)
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ぬるり012
一.暗闇の押し入れ 押し入れの奥底に埋もれるようにして、俺は息を潜めていた。学校に行けなくなり、はや十年。日光すら憎い、この暗闇が俺のすべてだった。母の足音が遠ざかるのを確認して、スマホの画面に目を落とす。しかし、その日は違った。画面の端、光の粒子が蠢くようにして現れた黒い球体。それが「ぬるり」との出会いだった。 初めてそれを認識したのは、スマホの画面に映る自分の顔の横だった。触ろうと指を伸ばすと、ぬるりと視界から消えた。 最初はただの幻覚だと思った。しかし、日を追うごとにその存在は確かなものになっていく。ある日、俺が押し入れから這い出て、リビングのソファに座り込んだ時だ。母が「ユウト、あんた、いつまでそうしてるつもりなの!」といつものように捲し立てた。その瞬間、「ぬるり」が母の頭上を漂い、次の瞬間、母は突然、言葉を詰まらせた。 「何、を…」 母の口から出たのは、聞いたことのない、奇妙な音だった。それはまるで、長年愛用していた機械が突然、壊れたような音。母はそのまま、焦点の合わない目で宙を見つめ、ピクリとも動かなくなった。俺は恐怖で体が震えた。まさか、「ぬるり」の仕業なのか? 「ぬるり」はその後も、俺の周囲で奇妙な現象を起こし続けた。父は、急に隣人に「あんた、誰だ?」と尋ね、まるで記憶を失ったかのように振る舞い始めた。妹は、鏡に映る自分を指差し、「これ、私じゃない!」と叫び、別人格に変わってしまったかのようだった。家族が、まるで操り人形のように変わっていく。それなのに、俺だけは「ぬるり」の影響を受けない。いや、正確には、俺にはもともと影響を与えるものがなかった。社会との繋がりも、家族との絆も、全てが希薄だった俺には、「ぬるり」が奪うものが何もなかったのだ。 ある夜、恐怖と安堵がないまぜになった奇妙な感情の中で、俺はふと、リビングに浮かぶ「ぬるり」に手を伸ばした。いつものようにぬるりとすり抜ける。しかし、今回は違った。指先が、ほんの一瞬、粘つくような感触を捉えた。そして、その瞬間、俺の頭の中に直接、過去の記憶がフラッシュバックした。 小学五年生の時、初めて不登校になった日のこと。教室の隅で、俺の机はいつも笑い声の中心だった。教科書は落書きされ、筆箱にはごみが入っていた。ある日、給食の時間に、俺の皿に砂がかけられた。担任の先生に訴えても、「仲良くしなさい」の一言。家に帰って母に話しても、「ユウトにも悪いところがあるんじゃないの?」と、まるで俺が悪いかのように言われた。父はテレビを見ながら「男なら我慢しろ」とだけ。 それからも、学校でのいじめはエスカレートしていった。上履きは隠され、体操服は泥だらけにされた。トイレに閉じ込められ、水をかけられた。その時、俺の心は完全に壊れた。学校に行くのが怖くて、体が震えた。 母は毎日、昼になると押し入れの前まで来て「ユウト、あんた、いつまでそうしてるつもりなの!」「学校に行かなきゃ、まともな人間になれないわよ!」と怒鳴った。その声が、俺の心を締め付けた。父は何も言わないのに、その存在そのものが重かった。「勉強して大学には行けよ」「私のように立派な大人になりなさい」父の口から出るのは、いつも俺の将来への「理想」ばかり。俺がどれだけ傷つき、苦しんでいるのか、彼らは全く理解しようとしなかった。妹は、俺が学校に行かない理由を友達に聞かれるたびに、悲しそうな顔をしていた。その悲しそうな顔が、俺を罪悪感で押し潰した。彼らの存在が、俺を押し入れから出られなくしていた。 しかし、ぬるりがそんな両親を変えた。母の言葉は意味をなさなくなり、父はまるで記憶を失ったかのように振る舞い始めた。俺は初めて、心からの安堵を覚えた。恐怖よりも、解放感が勝る。今まで感じたことのない、清々しいほどの自由。ぬるりが奪い去ってくれたものは、家族という名の重荷だった。 もう、何にも縛られることはない。押し入れの暗闇は、もはや安息の地ではなく、外の世界は、俺を拒絶する場所ではない。ただ、無限の可能性が広がる、広大な空間だ。俺はゆっくりと立ち上がった。十年ぶりに感じる、自分の足で大地を踏みしめる感覚。重かった体が、こんなにも軽い。まるで、新しい命が吹き込まれたかのように。
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ぬるり011
一.原人とぬるり これは、猿が人間に進化する途中の話。 「太陽が、沈む。」 集落のリーダーであるガクは、発達したばかりの言語で集団に伝えた。今日狩れた獲物は小さく、皆の顔には疲労と不満が滲む。火も無い時代。日が沈めば、いくら食料が少なかろうが狩りを辞め、危険な夜を耐え忍ばなくてはならない。彼らは、常に飢えに苦しんでいた。 そんな中、長老が遠くの森の奥を指さした。「あれ。」。彼らが目にしたのは、闇に溶け込むような黒い球体だった。宙に浮遊し、まるで生きているかのように微かに揺らめいている。それはこれまで見たこともない、異質な存在だった。ガクが好奇心に駆られて手を伸ばす。しかし、触れようとした瞬間、「ぬるり」と球体は横に滑り、彼の指先をすり抜けた。 次の日も、「ぬるり」は集落の周辺を漂い続けた。それは何もせず、ただそこにいるだけだった。人々は、次第に気にしなくなっていった。 二.奇妙な恵み ある日、ガクが水を探して森を彷徨っていると、地面が震えるほどの足音が響いた。現れたのは、巨大なナウマンゾウだった。しかし、そのナウマンゾウは奇妙だった。他の個体が持つような警戒心や凶暴さがなく、まるで何か深い夢の中にいるかのように、ぼんやりとした目で立ち尽くしている。その周りを、「ぬるり」がいくつも浮遊していた。 ガクは直感した。「ぬるり」が、この巨大な獣の抵抗する力を奪っているのだと。彼は急いで集落に戻り、男たちに事態を伝えた。「ぬるり。狩り。うまくいく。」飢えに苦しむ男たちは、半信半疑ながらもガクの言葉に従った。そして、容易くナウマンゾウを仕留めることに成功した。 集落には久しぶりに活気が戻った。人々は「ぬるり」を、飢えから救ってくれた奇妙な恵みとして受け入れ始めた。「ぬるり」を追いかけて、集落を移動するようになった。だが、ガクだけは違和感を覚えていた。 ガクは、狩りの最中に見たナウマンゾウの虚ろな目を忘れられなかった。そして、集落の人々の顔にも、喜びや悲しみといった感情の起伏が薄れ、どこか平坦な表情が増えていくように見えた。彼らの目には、かすかな黒い光沢が宿り始めていた。 三.ぬるりに冒された者たち ある夜、空を切り裂くような雷鳴が轟き、激しい雨と共に山火事が発生した。燃え盛る炎は瞬く間に森を飲み込み、集落へと迫ってくる。他の部族が恐慌状態に陥り、我先にと安全な場所へ逃げ惑う中、ガクの集落の者たちは違った。 彼らは炎を見つめていた。その顔には、恐怖も驚きも、そして逃げようとする本能すらも読み取れなかった。彼らの目は、まるで燃え盛る炎そのものが持つ熱と光に、ただ無感情に魅入られているかのようだった。ガクは叫んだが、彼らは動かない。 その男たちは炎に焼かれることもなく、地面に落ちた燃える枝を拾い上げた。まるで、それが何十年も前から知っていた道具であるかのように、彼らは無感情にたいまつを手にしていた。彼らの目には、恐怖ではなく、ただ茫洋とした認識の光だけが宿っていた。 彼らは燃え盛るたいまつを掲げ、燃え広がる森の奥へと進んでいく。その姿は、まさに「ぬるり」に冒された存在だった。 四.対立 火事がおさまって数日後。ガクたちはダンスをしたり歌を歌ったりして身の無事を喜び合った。しかし心無きものは、「ぬるり」に冒され火の力に魅せられるにつれ、日々を「役に立つか否か」で測るようになっていた。 焼け焦げた森の匂いがまだ漂う中で、集落は大きく二つに分かれ始めていた。やがて、心無きものたちは「感情は不要」と言い始め、火の力を新たな価値として掲げた。 「止めるな、ガク。我々は、効率的な道を進むだけ。」 「効率だと?喜んだり悲しんだりすることも必要じゃないか。」ガクは拳を握りしめた。 男は何も言わず、ゆっくりとガクに近づいてきた。その手には、燃える枝が握られている。ガクは覚悟を決めた。心なき者たちと、心を持つ自分。どちらが正しいのか、ここで決着をつけるしかない。 ガクは地面に落ちていた鋭い石を拾い上げた。男が振り上げた燃える枝を避け、渾身の力で石を振り下ろした。しかし、狙いはわずかに逸れ、石は男の肩をかすめ、地面に転がっていた別の石に激しくぶつかった。 キィン! 甲高い音と共に、暗闇の中に赤い火花が散った。 五.新たな価値 男も、そしてガクも、その火花に目を奪われた。ガクはもう一度、石と石を打ち付けてみた。再び、火花が散る。何度も繰り返すうちに、小さな燃えカスが生まれ、それが枯れ葉に引火した。 ぼう、と小さな炎が生まれた。 男の虚ろな目に、わずかな変化が見られた。それは驚き、そして理解。感情の薄い声で、男が呟いた。「…これは…」 心なき者たちは、ガクが作り出した炎に、それまで見せたことのない反応を示した。彼らの目は、火の熱と光に吸い寄せられるように輝き、その中に微かな感情の兆しが見えた。彼らはガクに近づき、火を囲んで座った。 男は静かに言った。「…無駄、ではなかったのか。」 ガクは首を横に振った。「ああ、無駄じゃなかった。むしろ、お前たちが失いかけていた、大事なものを取り戻すきっかけになったんだ。」 ガクはその後も、新しい狩りの方法や、獲物を効率的に解体する道具、そしてより複雑な意思疎通を可能にする言語の概念を次々と発見していった。彼が何か新しい試みを始めると、最初は「無駄だ」と反対する者もいたが、やがて彼の発見が彼らの生活を豊かにすることを知り、積極的に協力するようになった。 「ぬるり」は姿を消し、代わりに人々の心には、好奇心と探求心という新たな炎が灯った。
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ぬるり010
一.3年前の事故 20世紀も終わろうとする頃、街のミニ遊園地が廃業してから三年が経った。駅前の商店街もシャッターが降り、人影もまばらなこの街で、奇妙な噂が囁かれ始めた。黒い球体。それは誰もが触れられず、まるで実体がないかのように「ぬるり」と指の間をすり抜けるため、人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。「ぬるり」は、人の記憶を奪ったり、運命を変えたりすると囁かれていた。 主人公は、高校を出たばかりの青年、健斗。働かなければとわかっていても、気力が湧かず、ただ毎日をぶらぶらと過ごしていた。彼の心には、あるものがずっと沈殿していた。 ――三年前の、あの事故。 あのとき彼は、幼馴染だった結以を初めてデートに誘った。小さな、昔からあったミニ遊園地。当時も寂れていたけれど、観覧車はまだ動いていた。中学最後の春休み。卒業前の、ささやかで甘酸っぱい思い出になるはずだった。 けれど、あの日の午後、観覧車が頂上に差し掛かった瞬間だった。ふと、視界の隅に黒く艶のある球体が、浮かんでいた。 「ぬるり…」 結以がそう呟いた直後、観覧車がギギッと異音を立てて止まり、座席が小刻みに揺れ始めた。 「しっかり掴まって!」 だが間に合わなかった。次の瞬間、大きな揺れとともに結以の体が座席から浮き、観覧車の座席フレームに激しく頭を打ちつけた。赤い色が、空中に舞った。ぬるりの姿は、もう消えていた。 「結以!」 自分の声だけが、空しく遊園地に響いた。 それから、彼女は目を覚ましていない。 二.後悔の日々 彼は今も、ときおり結以の病室を訪れる。無言のまま白い部屋に座り、ただ彼女の寝顔を見つめている。ベッドに横たわる彼女の胸が、かすかに上下しているのを見るたび、「生きている」と確認するように、健斗は小さく息をつく。 ――もし、あの時誘っていなければ。 何度も、何百回も、思い返した。けれど、過去はどうやっても変わらない。純粋な恋だった。他愛ない会話、たわいない時間。それが、これからもずっと続くものだと、疑いもしなかった。彼には、彼女を忘れて前に進む自由があった。新しい誰かと、違う人生を始めることだってできた。しかし、そのような気にもなれず、ただ死んだような日々を繰り返していた。 三.逆回転する運命 ある日、健斗は今は寂れた遊園地の跡地を訪れた。観覧車の残骸が夕日に照らされ、不気味な影を落としている。錆びついた鉄骨を見上げると、あの日の叫びが胸の奥で蘇った。どうしてあんな場所に誘ったのか。どうしてあの瞬間、手を強く握ってやれなかったのか。何度悔やんでも、何度願っても、時間は残酷に前へ進むばかりだった。 そこに「ぬるり」が、再び姿を現した。何も語らず、何も答えず、ただゆっくりと、空中を旋回していた。「あの時の事故は、お前のせいなのかよ!」健斗はやるせない怒りをぶつけるように、「ぬるり」に拳を突き立てた。 その瞬間、「ぬるり」が光を放ち、廃墟の観覧車が、軋んだ音を立てて逆回転を始めた。ギギギ、ギィィィ。錆びついたゴンドラが、ゆっくりと、しかし確実に、過去へと時間を巻き戻していく。それに合わせて、周囲の風景も、色彩を取り戻し、人々の話し声が鮮明になる。 気がつけば、健斗は結以と一緒に、三年前の事故が起こる直前の、あの観覧車の一番高いゴンドラの中にいた。眼下には、輝くネオンに彩られた遊園地が広がり、はしゃぐ子供たちの声が聞こえる。結以は、隣で無邪気に笑っていた。健斗は、咄嗟に結以の手を強く掴んだ。 「結以! しっかり掴まって!」 混乱する結以を必死に抱きしめた。直後、彼らが乗っていた観覧車から、あの事故を引き起こすことになる金属音が響き渡った。しかし、今回は二人とも無事だった。 「ぬるり」は、彼らの頭上をゆっくりと旋回し、そして、夕闇に溶けるように消えていった。健斗は、目の前で驚いた顔をしている結以を見つめ、安堵の息をついた。 四.正しい未来、幸せな未来 その後も、二人は永遠に遊び続けた。廃墟だった遊園地は、「ぬるり」の魔力で活気を取り戻した。色とりどりの屋台の匂い、子供たちの歓声、観覧車から見下ろす夕焼け。すべてが、三年前のあの日、彼らが味わうはずだった幸福な思い出を、今まさに取り戻していった。健斗は、彼女の屈託のない笑顔を見るたびに、胸の奥が温かくなるのを感じた。 しかし、健斗が結以の手を握り返すと、彼女の指先が、今度はひどく冷たく、まるで凍ったように感じられた。結以の笑顔が、ゆっくりと、しかし確実に、曖昧になっていく。「ぬるり」が、健斗の視界の隅を「ぬるり」と横切った。その黒い球体は、以前よりも大きく、より明確に、そこに存在していた。 健斗は理解した。自分も、そして結以も、あの三年前の遊園地の事故で、致命的な怪我を負っていたのだ。彼らが観覧車を降りた瞬間、時間が巻き戻されたのではなく、「ぬるり」が改変した、本来あるはずだった“正しい未来”が、あるべき場所に戻っただけだった。 現実の健斗と結以は、白いシーツに包まれたまま、静かに息をしたまま眠り続けている。一方で、彼らの意識は、永遠に続く夢の中で、幸せな日々を送り続ける。それはどの未来とも異なる、彼らが望んだ「もしも」の世界。決して目覚めることのない、優しい安息の地だった。
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ぬるり009
昭和30年代後半、高度経済成長の熱気に浮かされる日本。東京郊外の小さな町、久坂町でも、新しい住宅が次々と建ち並び、人々は未来への希望に胸を膨らませていた。しかし、私は寂寥感を拭えなかった。 私は、過去に縋っていた。古地図を集め、古老の話を聞き、図書館の郷土資料室に通い詰めては、久坂村と呼ばれていた頃の風景を思い描いていた。私にとっての久坂は、草の匂いが香りせせらぎ流れる田園の地であり、今の久坂町が日に日にコンクリートに覆われていく中で、私は取り残されたような気がしていた。 そんな町に、不思議な球体の目撃が相次いだ。「ぬるり」だ。町で最初に「ぬるり」を目撃したのは、豆腐屋の源さんだった。夜中の配達中、路地裏に浮かぶ漆黒の球体。直径30センチほどだろうか、ゆっくりと、しかし確実に浮遊している。源さんが手を伸ばすと、ぬるりとすり抜け、掴めない。まるでそこには何も存在しないかのように。翌朝、源さんがその話をしても、誰も信じなかった。疲れ目のせいだろう、と笑われた。 「ぬるり」の目撃談は次第に増えていった。若い主婦が洗濯物を干している時に、子供が公園で遊んでいる時に。誰もが口を揃えて言う。「ぬるりと消えた」と。 そして、「ぬるり」は不可解な現象を引き起こし始めた。 ある日、町内会長の家で飼われていた愛犬が、夜中に突然、全身の毛が逆立ち、けたたましく吠え始めたかと思うと、翌朝には老いさらばえた姿で発見された。まるで何十年もの時を瞬時に経てしまったかのように。診断は「異常な老化」。医師も首を傾げるばかりだった。 また、町で一人暮らしの老婆が、朝、自宅で倒れているのが発見された。しかし、誰もが驚いたのは、老婆の顔が、ほんの数日のうちにまるで別人のように若返っていたことだった。肌には皺一つなく、髪には艶が戻っていた。 「ぬるり」は、触れたものの時間を巻き戻したり、進めたりする能力があるのではないか――そんな不気味な憶測が町中を駆け巡った。 私は、この一連の異変について私の得意分野にて調査をした。図書館や郷土資料館に通い、古地図とにらみあった。すると、ある奇妙な共通点に気づいた。愛犬が老化した町内会長、老婆が若返った隣人、その他の「ぬるり」の目撃情報。これら全ての場所は、かつて久坂村と呼ばれていた頃に存在した、古い墓地の跡地だったのだ。 そして、ついにその日が来た。久坂町を覆い尽くすかのように、空には無数の「ぬるり」が浮かび、町中の建物が、まるで早送りされた映像のように、築年数に応じた速度で急速に劣化していった。真新しい住宅は瞬く間に朽ち果て、アスファルトの道路はひび割れ、土へと還っていく。「ぬるり」は、音もなく、静かに、この町を、飲み込み続けた。 真新しいコンクリートの建物が瞬く間に木造家屋へと姿を変え、その壁には風雨に晒されたような染みが浮き出てくる。舗装された道路は土へと還り、道の両脇にはかつて見慣れた水路がせせらぎを取り戻していく。高度経済成長の波に乗って建てられた無機質な建造物が消え去り、かつての久坂村が持っていた、懐かしく、温かい息吹が蘇っていくようだった。 私の胸には、奇妙な感覚が渦巻いていた。それは、恐怖や絶望といったものとは少し違っていた。むしろ、意地悪だけれども抗いがたい、心地よさを感じている自分がいたのだ。 私は、思わずほくそ笑んだ。高度経済成長という名の未来に胸を膨らませ、新しいものばかりを追い求めてきた人々。彼らが築き上げたものが、今、無残にも過去へと飲み込まれていく。その様は、まるで、過去に縋りついている私自身の、未来への黒い嫉妬が「ぬるり」と具現化したかのようだった。