昭和30年代後半、高度経済成長の熱気に浮かされる日本。東京郊外の小さな町、久坂町でも、新しい住宅が次々と建ち並び、人々は未来への希望に胸を膨らませていた。しかし、私は寂寥感を拭えなかった。
私は、過去に縋っていた。古地図を集め、古老の話を聞き、図書館の郷土資料室に通い詰めては、久坂村と呼ばれていた頃の風景を思い描いていた。私にとっての久坂は、草の匂いが香りせせらぎ流れる田園の地であり、今の久坂町が日に日にコンクリートに覆われていく中で、私は取り残されたような気がしていた。
そんな町に、不思議な球体の目撃が相次いだ。「ぬるり」だ。町で最初に「ぬるり」を目撃したのは、豆腐屋の源さんだった。夜中の配達中、路地裏に浮かぶ漆黒の球体。直径30センチほどだろうか、ゆっくりと、しかし確実に浮遊している。源さんが手を伸ばすと、ぬるりとすり抜け、掴めない。まるでそこには何も存在しないかのように。翌朝、源さんがその話をしても、誰も信じなかった。疲れ目のせいだろう、と笑われた。
「ぬるり」の目撃談は次第に増えていった。若い主婦が洗濯物を干している時に、子供が公園で遊んでいる時に。誰もが口を揃えて言う。「ぬるりと消えた」と。
そして、「ぬるり」は不可解な現象を引き起こし始めた。
ある日、町内会長の家で飼われていた愛犬が、夜中に突然、全身の毛が逆立ち、けたたましく吠え始めたかと思うと、翌朝には老いさらばえた姿で発見された。まるで何十年もの時を瞬時に経てしまったかのように。診断は「異常な老化」。医師も首を傾げるばかりだった。
また、町で一人暮らしの老婆が、朝、自宅で倒れているのが発見された。しかし、誰もが驚いたのは、老婆の顔が、ほんの数日のうちにまるで別人のように若返っていたことだった。肌には皺一つなく、髪には艶が戻っていた。
「ぬるり」は、触れたものの時間を巻き戻したり、進めたりする能力があるのではないか――そんな不気味な憶測が町中を駆け巡った。
私は、この一連の異変について私の得意分野にて調査をした。図書館や郷土資料館に通い、古地図とにらみあった。すると、ある奇妙な共通点に気づいた。愛犬が老化した町内会長、老婆が若返った隣人、その他の「ぬるり」の目撃情報。これら全ての場所は、かつて久坂村と呼ばれていた頃に存在した、古い墓地の跡地だったのだ。
そして、ついにその日が来た。久坂町を覆い尽くすかのように、空には無数の「ぬるり」が浮かび、町中の建物が、まるで早送りされた映像のように、築年数に応じた速度で急速に劣化していった。真新しい住宅は瞬く間に朽ち果て、アスファルトの道路はひび割れ、土へと還っていく。「ぬるり」は、音もなく、静かに、この町を、飲み込み続けた。
真新しいコンクリートの建物が瞬く間に木造家屋へと姿を変え、その壁には風雨に晒されたような染みが浮き出てくる。舗装された道路は土へと還り、道の両脇にはかつて見慣れた水路がせせらぎを取り戻していく。高度経済成長の波に乗って建てられた無機質な建造物が消え去り、かつての久坂村が持っていた、懐かしく、温かい息吹が蘇っていくようだった。
私の胸には、奇妙な感覚が渦巻いていた。それは、恐怖や絶望といったものとは少し違っていた。むしろ、意地悪だけれども抗いがたい、心地よさを感じている自分がいたのだ。
私は、思わずほくそ笑んだ。高度経済成長という名の未来に胸を膨らませ、新しいものばかりを追い求めてきた人々。彼らが築き上げたものが、今、無残にも過去へと飲み込まれていく。その様は、まるで、過去に縋りついている私自身の、未来への黒い嫉妬が「ぬるり」と具現化したかのようだった。
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