一.跡取り

平成の初期、日本のとある地方都市。バブル崩壊の波を受け、シャッターを下ろした商店が目立つ駅前の一角に、奇妙な噂が数十年ぶりに流れだした。

ぬるり

それは、人の頭ほどの大きさの、漆黒の球体。ふわりと宙に浮かび、意思を持つかのようにゆっくりと漂う。手を伸ばしても、まるで霞のように、ぬるりとすり抜けて掴めない。その正体は、誰も知らない。ただ、その黒い球体は、決まって「ある特定の家」の周囲に現れると言われていた。

その家は、この町の旧家である神崎家だった。神崎家は代々、この土地の政治や経済に深く関わってきた。特に、高度経済成長期には、彼らが経営する化学工場が町の主要産業として栄えた。しかし、近年は当主の神崎巌が病に伏せ、その影響力は衰える一方だった。

巌の息子である啓司は、東京の大学を卒業後、実家に戻り家業を継ぐため、町議会への出馬の準備をしていた。

啓司は、何不自由なく育てられた。名家の跡取りとして大切に扱われたが、その周囲ではいくつかの不可解な出来事があった。飼っていた猫や、捕まえた虫が突然消える──そんなことが一度ならずあった。そして、消えたのは小動物だけではなかった。

啓司には妹がいた。妹は先天的な障害を抱えていたが、いつも穏やかに笑っていた。堅苦しい家の中で、啓司が心から気を許せたのは妹だけだった。しかし、その妹も、10歳の誕生日を迎える前に、突然姿を消した。警察も動き、家中が騒然となったはずなのに、不思議なことに、出来事の痕跡そのものが、時間とともに街の記憶から消えていった。

その記憶は啓司の心の奥に暗く沈み、彼の人格を静かに揺らし続けた。


二.ぬるりを見た

ぬるり」の目撃情報が増えるにつれ、町では奇妙な出来事が頻発するようになった。深夜、神崎家の工場跡地だけが異様な静けさに包まれ、虫の声すら聞こえない。朝になると、隣接する田畑の作物が一夜で枯れ果てている。町の人々は囁き始めた。「ぬるり」は神崎家に忍び寄る不幸の前触れだ、と。あるいは、神崎家が抱えてきた「何か」の化身なのだと。

それと同時に、啓司の身辺で奇妙なことが起こり始めた。かつて彼を支持していた町議会議員が次々と不祥事を起こし、失脚していく。町長選に向けて啓司が用意していた政策提言書は、まったく別の内容に書き換えられていた。

――まるで、最初からその文書が“正しかった”かのように。

書斎で資料を整理していた啓司の目に映ったのは、窓の外をゆっくりと横切る漆黒の球体だった。啓司は思わず窓を開け、手を伸ばした。だが、「ぬるり」は指先をかすめるように、するりと消えた。

ある日、啓司は父の巌の病室を訪れた。巌はかすれた声で呟いた。

「啓司…ぬるりを見たか…」

「あれは、この土地に巣食う『記憶の穴』だ。我々神崎家は、代々その穴を塞ぐために生きてきた。そのために、大きな代償を支払ってきた…だが、もう…」

巌は言葉を濁し、深く咳き込んだ。その時、病室の窓の外を、漆黒の球体がゆっくりと通り過ぎていった。


三.歪みの演説

数日後、選挙が迫る中、啓司は町民会館で演説をすることになった。

「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。この町の未来を担う者として、私は皆様に、より豊かで活力ある町を築くための私のビジョンをお伝えしたいと思います。長らく停滞していたこの町に、新たな風を吹き込み、若者が戻り、高齢者が安心して暮らせる、そんな温かいコミュニティを…」

壇上に立つ啓司の目に、聴衆の中に混じる奇妙な影が映った。それは、漆黒の球体、「ぬるり」だった。一つ、また一つと、その数は増えていく。すると、啓司の演説に不可解なことが起こった。

「…そのために、私はまず、町の産業基盤を強化し、新たな雇用を創出します。産業…といえば、かつてこの町には、そう、工場がありましたね。神崎化学工場。あれは…ええ、あの頃は、多くのものが生産され、町も活気づいていたはずです。しかし、その陰で…いえ、その話はまた別の機会に。 とにかく、私はこの町が再び輝きを取り戻すために…」

啓司の演説内容は、彼の意図するところではなく歪み始めた。会場も、彼の演説に奇妙な違和感を感じ、ざわつき始めた。

「…そして、私はこの町の医療と福祉を充実させ、誰もが安心して健康に暮らせる環境を整備します。しかし、健康…といえば、私は思い出すのです。あの頃、多くの人々が原因不明の病に苦しんでいたことを。奇妙な咳、皮膚の発疹、そして幼い子供たちの突然の衰弱…。神崎化学工場から排出された有害物質が、地下水を、そして農作物を汚染していたのです。父、巌は、この事実を知っていました。いえ、知っていたどころではありません。彼は、当時の町長や警察と結託し、この事実を隠蔽したのです。莫大な金を使い、被害者の口を封じ、補償を一切行わなかった。私たちの神崎家が、この町の土壌と人々の健康を蝕んでいたのです! 私は、この町の…この町の過去を…」

啓司の演説の内容は、彼の意図とは裏腹に、かつて巌が語っていた、町の公害問題と隠蔽に関する真実を暴露するものへと変貌していった。会場は騒然となった。

ぬるり」は、啓司が「忘れさせられていた」記憶を呼び起こしていた。それは、町が目を背けてきた公害とその隠蔽の歴史そのものだった。

不本意な演説を止められない啓司の耳に、聴衆の囁きが届く。

「まさか……神崎家が……」


四.代償

町に混乱が広がる中、啓司は、かつて巌が話していた「記憶の穴」とは、この町が長年目を背けてきた公害問題の負の歴史そのものだと理解した。そして、神崎家は代々、この町にとって不都合な過去、特に公害問題の隠蔽を「ぬるり」を用いて隠蔽してきた。しかし、当主の巌が病に倒れ、その力が弱まった今、「ぬるり」は制御を失い、隠蔽されてきた真実を露呈し始めたのだ。

さらに、啓司は、巌の話した「大きな代償」という発言を思い出した。

かつて記憶の穴をふさぐために使ったのは――“妹”だったのか?

演説を終えた後、急に胸が苦しくなり、足が勝手に動いた。息を切らしながら、病院へ向かい、巌の入院している病室へ。

――しかし。

そこに巌の姿はなく、その痕跡が消えたベッドが忽然と存在していたのみだった。

しばらくして、「ぬるり」の目撃情報はぱたりと止まった。
それと同時期に、神崎家も町から姿を消したという。


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