一.ネットの都市伝説

2000年代前半、インターネットの片隅で「ぬるり」という奇妙な都市伝説が囁かれ始めた。

その正体は、丑三つ時に誰もいない公園などに現れるという、20センチ程度の真っ黒な球体。常に宙に浮かび、ゆっくりと漂うそれに、好奇心から手を伸ばしても、まるで幻のように指の間をぬるりとすり抜け、決して捕まえることはできない。

始まりは、ごく一部のオカルト掲示板だった。そこに投稿されたブレた写真や信憑性に乏しい目撃談は、当初、誰もが冗談として笑い飛ばしていた。しかし、やがて報告され始めたのは、ただの怪談では片付けられない奇妙な現象だった。

「ぬるりを見た翌日、着信履歴に知らない番号が残ってた」
「ぬるりのそばを通った夜から、PCのデスクトップに知らないファイルが増えていた」

それらは、ぬるりが接触した人々の電子機器に、微かな異変をもたらすことを示していた。

大学院生の高橋は、この「ぬるり」の都市伝説に懐疑的な一人だった。

「ぬるり」は、「情報に寄生する実体」ではないかという仮説に対し、高橋は鼻で笑う。「そんな馬鹿な。デジタルデータが実体を持つなんて、荒唐無稽だ。」 彼はそう吐き捨てた。しかし、心のどこかで、説明のつかない現象に対するわずかな好奇心が芽生えていたのも事実だ。

そして、彼はある儀式の存在を目にする。それは、インターネットの深層に潜む「ぬるり」を呼び出すとされる、密かに囁かれていた手順だった。


【閲覧注意】ぬるり降臨の儀

手順:

  1. 「ぬるり」に関するあらゆる情報、画像、動画を可能な限りインターネット上から収集する。
  2. それらを一つのフォルダにまとめ、「ぬるり.zip」のような圧縮ファイルを作成する。
  3. 深夜0時ちょうどに、そのファイルをSNSや掲示板など、不特定多数の目に触れる場所にアップロードしようと試みる(実際にアップロードが完了しなくてもよい)。
  4. アップロードの進捗バーが99%になったところで、急にアップロードをキャンセルする。
  5. これを3日連続で行う
  6. 最終日の午前3時33分に、誰もいない公園で「ぬるり降臨」と叫び録音する。

現象:

この儀式を終えると、自身のインターネット使用履歴や検索履歴に、「ぬるり」とは無関係であるはずの、しかしどこか不気味な検索ワードやアクセス記録が混じり始める。

また、普段使っているデバイスの壁紙が真っ黒な画像に変わっていたり、キーボードの特定のキーが触れていないのに反応したりすることがある。

それはまるで、あなたの情報空間そのものが、ぬるりに侵食され始めているかのようです。


深夜0時ちょうど。高橋は、作成した「ぬるり.zip」を、匿名掲示板にアップロードしようと試みた。進捗バーがゆっくりと99%に達した瞬間、彼は迷うことなくキャンセルボタンをクリックした。その夜、高橋はいつもより疲れて眠りについた。翌日も、そしてその翌日も、高橋は同じ儀式を繰り返した。

そして最終日。午前3時33分。高橋は、人気のない近所の公園に立っていた。少し冷える空気の中、彼は深呼吸をし、意を決して叫んだ。「ぬるり降臨!」

彼の声が夜の闇に吸い込まれていく。何も起こらない。高橋は安堵し、そして同時に、少しの拍子抜けを感じた。「やはり、ただの悪ふざけだったか…」彼はそう思い、家路についた。


二.浸食

しかし、その翌日から、高橋の日常は少しずつ、だが確実に侵食され始めた。

まず、研究室のPCの壁紙がいつの間にか真っ黒になっていた。戻しても数時間後には元に戻り、さらにキーボードのキーが触れていないのに勝手に反応する。報告書を作成中に意味不明な文字が入力されたり、ファイルが勝手に閉じたりした。

最も不安を覚えたのは、インターネット履歴だった。定期的に消去していたはずなのに、見覚えのない検索語が残っていた。

「ぬるり 実体化 条件」
「存在しない データ 通信」
「ネットワーク 深層 アクセスログ」

まるで無意識のうちに自分が検索したかのような、しかし記憶にないワードばかりだった。

さらに、同僚との会話中に異変は起きた。

「高橋、この論文のデータ、ちょっと見てもらえないか?」

画面を見た瞬間、掲載日時、ファイルサイズ、IPアドレス、ダウンロード履歴など、すべてのメタデータが脳に直接流れ込むように理解できてしまった。

「……どうした、高橋? 顔、真っ青だぞ」

遠くから響くような声。彼の思考は制御不能な情報の奔流に呑み込まれていた。SNSの更新、掲示板の書き込み、監視カメラの映像、匿名動画——本来なら関係ないはずのデータが脈絡なく脳内に侵入してくる。

中には彼自身の記録も混ざっていた。幼少期に遊んだ公園の映像、大学時代のメールの文面……“自分”の記憶の全てが、既にネット上に存在していたのだ。

次第に彼は、自我の境界が曖昧になるのを感じた。思考と情報、感情とログ、記憶とキャッシュ。どこまでが「高橋」で、どこからが「ぬるり」なのか——その区別が、つかなくなっていった。


三.失踪

数日後、高橋は完全に姿を消した。その後、高橋の行方は、大学関係者にも、家族にも、ネット上のどこにも見つからなかった。

ただひとつ、奇妙な動きが観測された。

彼が失踪した翌週、匿名掲示板に突如として、あるスレッドが出現したのだ。

【閲覧注意】ぬるり降臨の儀

そこに投稿されていた手順は、高橋が記録していたものと完全に一致していた。関係者たちは、スレッドの出どころを追跡しようとした。複数のルーティングを経たログの末端に、ひとつのIPアドレスが記録されていた。

調査の結果、そのIPは、かつて高橋が研究室で使用していた端末のものだった。

だが、その端末は、高橋の失踪以来、一度もネットワークに接続されていないはずだった。

「……接続記録の日時は、スレッド投稿の数分前。まるで……彼が、そこに“いた”かのように」

その瞬間、関係者の間に、言いようのない戦慄が走った。

高橋は、いまや物理世界のどこにも存在していない。しかし彼は、情報と人間の境界が完全に溶けた先にある、インターネット上の概念と化してしまったのだろうか。


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