一.ぬるりの救い

闇夜に溶け込むような墨色の球体。それが現れたのは、江戸も末期、とある寂れた長屋の片隅であった。人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。手が届くかと思えば、その瞬間に空気を滑るように消え、また別の場所で姿を現す。まるでそこに実体がないかのような、掴みどころのない存在。

長屋に住まうお浪は、日雇いの洗濯で細々と生計を立てていた。夫は博打狂いの挙げ句、数年前に姿を消した。残されたのは病弱な娘、お鈴。お鈴の病状は悪化の一途を辿った。高熱に魘され、幻を見る。医者からは手の施しようがないと言われ、お浪は絶望の淵に沈んだ。ある夜、お浪がお鈴の咳き込む声に目を覚ますと、枕元に「ぬるり」が浮遊していた。思わず手を伸ばすも、するりと躱された。

そんな折、お浪は奇妙な噂を耳にする。「ぬるり」に触れた者は、その魂の一部を奪われるという。しかし、別の噂もあった。「ぬるり」に触れた者が、失ったものを取り戻したという話も。お浪は藁にもすがる思いで、「ぬるり」を追い始めた。

ある日、お浪が洗濯物を干していると、「ぬるり」が目の前を横切った。今度こそと、渾身の力で手を伸ばす。すると、これまでとは違い、確かに手のひらに柔らかい感触があった。しかし、その瞬間、お浪の視界は真っ白に染まり、意識が途絶えた。

次に目を覚ますと、お浪は布団の中にいた。傍らでは、お鈴が穏やかな寝息を立てている。額に触れると、熱はない。信じられない思いで医者を呼ぶと、医者は首を傾げながらも、「奇跡だ」と呟いた。お浪は安堵に涙した。お鈴が回復したのは紛れもない事実だった。

しかし、お浪の安堵は長くは続かなかった。お鈴の病は癒えたものの、お浪自身が少しずつ変化していくことに気づいたのだ。まず、身体が異常に冷え込むようになった。そして、鏡を見るたびに、自分の顔が少しずつ、だが確実に、痩せこけていくように感じられた。さらに恐ろしいことに、時折、お浪の記憶が薄れるようになった。夫の顔が思い出せない。洗濯物の干し方がわからない。お浪は、自分の魂が少しずつ「ぬるり」に吸い取られているのではないかと、戦慄した。


二.魂のうつろい

ある夜、お浪はふと、お鈴の枕元に「ぬるり」が浮遊しているのを目撃した。しかし、それは以前見たものとは少し違っていた。以前よりも、ほんのわずかに、大きい。そして、お浪の体は、その「ぬるり」へと吸い寄せられるかのように、ゆっくりと、しかし確実に傾いていく。お浪は抗おうとした。だが、身体はいうことを聞かない。

まるで透明な糸に引かれるように、お浪の意識は「ぬるり」へと吸い込まれていく。その瞬間、お浪はかつて経験したことのない、激しい光に包まれた。視界が真っ白になり、何も見えなくなる。そして、次の瞬間、まるで深い水底から浮上するように、お浪は息を吸い込んだ。

ゆっくりと目を開けると、そこは慣れ親しんだ長屋の天井だった。しかし、何かが違う。自分の手を見つめる。それは、以前よりもずっと小さく、細い。まるで、幼い子供の手のようだった。傍らを見ると、布団が盛り上がっている。そこには、うっすらと開いた目で天井を見つめる、自分自身の姿があった。

その身体は、以前よりも一層痩せこけ、肌は蝋のように冷たかった。まるで、生気というものがそこから完全に失われたかのように。お浪は、その光景を理解するのに時間を要した。お鈴。これは、お鈴の身体だ。そして、横たわるのは、自分自身の亡骸。

すべてを悟った瞬間、お浪の胸に激しい後悔と、底知れぬ絶望が押し寄せた。お鈴を救うために触れた「ぬるり」は、お浪の魂をお鈴の身体に移したのだ。お浪は、お鈴の生命を取り戻したいと願ったが、お浪がお鈴の人生を奪い去ろうなどとは望んでいなかった。お鈴の魂はどこに消えたのだろうか?その罪は、代償というにはあまりにも重いものであった。

お浪は、小さくなった手で自分の顔を覆い、静かに涙を流した。しかし、その涙は、お鈴の小さな身体を震わせるだけで、誰もその悲しみに気づくことはなかった。


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