一章 漂う影
昭和三十年、田舎町。蝉の声が降り注ぐ午後、私は縁側で冷えた麦茶を啜っていた。隣では、縁側に腰掛けた妻が、縫い物の手を休めてふと空を見上げている。「あなたも少しは休んだらどう? いつも仏頂面ばかりじゃ、シワが増えるわよ」。彼女の優しい声に、私は曖昧に頷いた。しかし、その直後、視界の隅を黒い何かが横切った。初めは鳥かと思ったが、それは空中でぴたりと静止した。
直径三十センチほどだろうか、漆黒の球体。表面は光を吸い込むように鈍く輝き、まるでそこに空間の穴が空いているかのようだった。好奇心に駆られ、ゆっくりと手を伸ばす。指先が触れる直前、それは「ぬるり」と音もなく滑り、私の手のひらをすり抜けた。掴めない。まるでそこに存在しないかのようだ。妻に話しても、彼女は首を傾げるばかりだった。「一体何を言っているの? ここには何もいないじゃない」。
二章 浸蝕
「ぬるり」は私にしか見えないようだった。家族に話しても、気のせいだと笑われた。しかし、私の中の「ぬるり」の存在感は増していく。夜になれば枕元に浮かび、夢の中にまで現れるようになった。
しかし、私は「ぬるり」が見えることを誰にも言えなかった。もし私が「ぬるり」に憑かれていると知られたら、狂人扱いされるだろう。戦争で心まで病んだのだと、そう言われるのが怖かった。すでに多くのものを失い、これ以上、自分という存在が損なわれることに耐えられなかった。
終戦から十年。瓦礫の山だった町は、少しずつ形を取り戻し、人々も明るさを取り戻しつつあった。しかし、私だけは、あの日の記憶から抜け出せずにいた。焦土と化した故郷、目の前で崩れ落ちる家屋、そして、もう二度と帰らぬ家族の顔。彼らの声も、匂いも、日ごとに薄れていくのに、あの時の絶望だけは鮮明だった。私は生き残ってしまった。それが、時に耐え難い重荷となってのしかかる。
ある夜、夢の中で「ぬるり」は、ぼんやりとした光を放ち始めた。その光は、まるで遠い記憶の残像のように揺らめき、そして、一瞬だけ、兄の笑顔が浮かび上がったように見えた。
私は飛び起きた。全身から汗が噴き出し、心臓が激しく脈打つ。兄は、空襲の夜、私を庇って死んだ。その時、最後に見た兄の顔は、苦痛に歪んでいたはずだ。だが、夢の中の兄は、まるで昔のように穏やかに笑っていた。
「ぬるり」は、私の失われた記憶を呼び覚まそうとしているのか? それとも、ただ私の心の隙間に入り込もうとしているだけなのか? どちらにしても、私はその漆黒の球体から目が離せなくなっていた。
三章 共鳴する過去
あの日以来、私の日常は少しずつ変容していった。漆黒の球体は、もはや恐怖の対象ではなかった。それは、まるで失われた記憶の断片を繋ぎ合わせる、不可思議な案内人のようだった。昼夜を問わず、私の傍らに漂い、時には夢の中に深く潜り込み、忘却の淵に沈んでいた光景を鮮明に蘇らせる。
ある日の午後、縁側でうたた寝をしていると、またも「ぬるり」が目の前に現れた。いつもより強く光を放ち、その中に歪んだ景色が映し出された。それは、焼け焦げた町、崩れ落ちた家々、そして、煙の中から立ち上る黒い渦――あの空襲の夜の光景だった。しかし、決定的に異なるのは、そこに私自身の姿がなかったことだ。その時、「ぬるり」から声が響いた。
「お前も、こちらへ来い」
その言葉は、私の中にずっと燻っていた罪悪感を抉り取った。なぜ、私だけが生き残ってしまったのか。なぜ、愛する家族は死に、私だけがこの苦痛を味わい続けなければならないのか。私は、怒りと悲しみ、そして自己への嫌悪がないまぜになった感情に支配された。
妻は、そんな私の異変に気づいていたのだろう。心配そうな眼差しで私を見つめるばかりだった。
四章 終戦記念日の朝
昭和三十年八月十五日。蝉の声は、この日も降り注ぐ。私は縁側で、冷えた麦茶を啜っていた。隣には、「ぬるり」が静かに漂っている。しかし、この日の「ぬるり」は、いつもと違っていた。これまでとは比べ物にならないほど強く輝き、その表面には、信じられない光景が映し出されていた。
それは、終戦間近の日本の風景だった。しかし、そこに空襲の痕跡はなかった。焼け焦げた建物も、瓦礫の山もない。人々は穏やかな表情で、町は平和そのものだった。そして、その光景の中に、若き日の両親と、笑顔の兄の姿があった。彼らは、まるでこれから起こる災厄を知らないかのように、楽しげに笑い合っている。
「ぬるり」から、再び声が聞こえた。しかし、それは、これまでのように私の心を抉るような声ではなかった。それは、まるで優しい囁きのように、私の脳裏に響き渡った。
「お前は、ここで生きろ」
その甘言につられ、私はつい手を伸ばした。次の瞬間、漆黒の球体は激しい光を放ち、私の視界は真っ白に染まった。
そこには、これまで見慣れたはずの田舎町があった。しかし、そこには、戦後の傷跡が一切なかった。真新しい家々が立ち並び、道行く人々は皆、明るい表情で挨拶を交わしている。そして、町の中心には、あの巨大な爆弾が落ちたはずの場所に、平和な広場が広がっていた。
私は、呆然と立ち尽くした。これは、一体どういうことなのか。「ぬるり」が私を、終戦直前に巨大な爆弾が落ちなかった世界へと連れてきたのか? 私は、夢の中にいるのか?
その時、背後から優しい声が聞こえた。
「お兄ちゃん、遅いよ! みんな待ってるんだから!」
振り返ると、そこに立っていたのは、あの頃と変わらない、若き日の兄だった。彼は、あの空襲の夜に失われたはずの命を、今、この平和な世界で生きている。私は、思わず兄の頬に触れた。温かい。確かにそこに存在する。私は、溢れる涙を拭いもせず、ただひたすらに、兄の顔を見つめていた。
五章 残された者
縁側で縫い物をしていた妻は、隣にいたはずの夫がいないことに気づいた。日差しが傾き、夕闇が迫る。家の中を探すが見当たらず、玄関の下駄から外出していないことを察した。庭に出ると、不穏な静けさが漂い、虫の声だけが大きく聞こえた。
「どこへ行ってしまったの…」
妻の呟きは誰にも届かず、夏の終わりの空に吸い込まれていった。彼女の知る夫は、もう二度と、その縁側に戻ってくることはないだろう。
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