一.狂絵師、新五郎

時は文政。江戸の片隅に、古びた長屋がございました。そこに住まうは、絵師の新五郎と申す男。近頃、得体の知れぬ怪異に悩まされておりました。夜な夜な現れるは、漆黒の球体。墨を固めたように真っ黒で、しかし朧(おぼろ)げに光を放ち、宙を漂うておる。新五郎が手を伸ばせば、ぬるりと肌を滑り抜けて、掴むこと叶わず。その度ごとに名状し難き恐怖が彼を襲うたのでございます。

ある夜、新五郎はいつものように絵筆を握っておりました。されど、どうにも筆が進まぬ。あの「ぬるり」の残像が脳裏をちらつき、集中できぬゆえ。その時、ふと自身の筆跡に違和感を覚えました。描いた覚えのなき、奇妙な螺旋(らせん)や、おぞましき目玉のような模様。そして絵が完成すると、絵の中の目がぎょろりと動き、部屋に充満しておった墨の匂いは、たちまち腐臭へと変わりました。吐き気を催すほどの悪臭に、新五郎は思わず絵筆を取り落としたのでございます。

その日を境(さかい)に、新五郎の周りでは不可解な出来事が頻繁に起こり始めました。新五郎が描きしは、名高き歌舞伎役者・片岡華之丞(かたおか はなのじょう)の肖像画。その絵が、時間の経過とともに徐々に老いてゆくことでございます。皺(しわ)が刻まれ、肌は弛(たる)み、生気なき目になってゆく。さらに恐ろしゅうございましたのは、本物の華之丞にも、同じように皺が刻まれ、肌が弛み、生気なき目になってゆくことでございます。あたかも絵に描かれた者の命が、少しずつ吸い取られているかのようであったと申します。

新五郎は悟りました。この「ぬるり」と申すは、絵を通じて人の生気を吸い取る、呪われた存在なのだと。そして、自分が描く絵がその媒体となっていることに、彼は深く絶望したのでございます。


二.孤独の果てに

呪いの正体を知りて以来、新五郎は閉じこもるようになりました。町の者たちも、彼を不吉なものとして避けて通ります。もとより新五郎は孤独な身の上。前の大火にて両親も、そして最愛の妻も失い、たった独りでこの長屋に暮らしておったのです。彼の日課と申せば、ただただ絵を描き、その絵と対話することのみ。それ以外に変わらぬ日々を送っておりました。

ある日のこと。彼は一つの思いつきに辿り着きました。もし自分の筆が生者の命を奪うのであれば、死者を描いたならば、一体どうなるであろうか、と。

その閃きに従い、新五郎は筆を執りました。描いたのは、すでに黄泉(よみ)の国へと旅立った、最愛の妻の肖像画でございます。愛しき面影を屏風に写し終えると、不思議なことに、絵の中から確かに妻の声が聞こえてきたのでございます。

「あなた、まだ、ここにいてくださったのですね…」

新五郎は夢中で語りかけました。妻に伝えられなかった感謝の言葉、果たせなかった約束、そして孤独な日々を。妻もまた、彼に応えるかのように語りかけてくる。その温かい声に包まれ、新五郎はこれまでの孤独が嘘のように消え去るのを感じました。彼は幸せでございました。もう、独りではなかったのです。


三.魂の混濁

さような平穏な日々がしばらく続いた、ある日のこと。彼の長屋を訪問者が訪ねてまいりました。戸口から中を覗き込んだ訪問者は、思わず息を呑みます。

部屋の中では、新五郎が虚ろな目で宙を見つめ、独り言をずっと呟(つぶや)いているではございませぬか。彼の口から紡がれる言葉は、時折、女の声に変わる。それは、新五郎自身が語っているようで、しかし明らかに異なる言葉遣いや声色を帯びておりました。

さよう、新五郎自身に、最愛の妻の魂が憑依(ひょうい)してしもうたのでございます。彼は妻と対話しているのではない。彼の肉体は妻の魂に乗っ取られ、彼の精神は、妻の記憶と感情に深く侵食されておりました。

新五郎は、狂い果ててしもうたのです。

彼の瞳に宿る光は、もはや絵師としての鋭さではなく、か細き狂気と、そして二つの魂が混じり合った、混沌とした光でございました。彼は、永遠に妻との対話を続けるかのように、ただ独り、薄暗き長屋で呟き続けておりました。その傍に、ぬるりとした黒い球体が転がっていたとか、いないとか。

これにて、絵師・新五郎の哀しき物語は幕を閉じるのでございます。


Comments

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *