一.暗闇の押し入れ

押し入れの奥底に埋もれるようにして、俺は息を潜めていた。学校に行けなくなり、はや十年。日光すら憎い、この暗闇が俺のすべてだった。母の足音が遠ざかるのを確認して、スマホの画面に目を落とす。しかし、その日は違った。画面の端、光の粒子が蠢くようにして現れた黒い球体。それが「ぬるり」との出会いだった。

初めてそれを認識したのは、スマホの画面に映る自分の顔の横だった。触ろうと指を伸ばすと、ぬるりと視界から消えた。

最初はただの幻覚だと思った。しかし、日を追うごとにその存在は確かなものになっていく。ある日、俺が押し入れから這い出て、リビングのソファに座り込んだ時だ。母が「ユウト、あんた、いつまでそうしてるつもりなの!」といつものように捲し立てた。その瞬間、「ぬるり」が母の頭上を漂い、次の瞬間、母は突然、言葉を詰まらせた。

「何、を…」

母の口から出たのは、聞いたことのない、奇妙な音だった。それはまるで、長年愛用していた機械が突然、壊れたような音。母はそのまま、焦点の合わない目で宙を見つめ、ピクリとも動かなくなった。俺は恐怖で体が震えた。まさか、「ぬるり」の仕業なのか?

ぬるり」はその後も、俺の周囲で奇妙な現象を起こし続けた。父は、急に隣人に「あんた、誰だ?」と尋ね、まるで記憶を失ったかのように振る舞い始めた。妹は、鏡に映る自分を指差し、「これ、私じゃない!」と叫び、別人格に変わってしまったかのようだった。家族が、まるで操り人形のように変わっていく。それなのに、俺だけは「ぬるり」の影響を受けない。いや、正確には、俺にはもともと影響を与えるものがなかった。社会との繋がりも、家族との絆も、全てが希薄だった俺には、「ぬるり」が奪うものが何もなかったのだ。

ある夜、恐怖と安堵がないまぜになった奇妙な感情の中で、俺はふと、リビングに浮かぶ「ぬるり」に手を伸ばした。いつものようにぬるりとすり抜ける。しかし、今回は違った。指先が、ほんの一瞬、粘つくような感触を捉えた。そして、その瞬間、俺の頭の中に直接、過去の記憶がフラッシュバックした。

小学五年生の時、初めて不登校になった日のこと。教室の隅で、俺の机はいつも笑い声の中心だった。教科書は落書きされ、筆箱にはごみが入っていた。ある日、給食の時間に、俺の皿に砂がかけられた。担任の先生に訴えても、「仲良くしなさい」の一言。家に帰って母に話しても、「ユウトにも悪いところがあるんじゃないの?」と、まるで俺が悪いかのように言われた。父はテレビを見ながら「男なら我慢しろ」とだけ。

それからも、学校でのいじめはエスカレートしていった。上履きは隠され、体操服は泥だらけにされた。トイレに閉じ込められ、水をかけられた。その時、俺の心は完全に壊れた。学校に行くのが怖くて、体が震えた。

母は毎日、昼になると押し入れの前まで来て「ユウト、あんた、いつまでそうしてるつもりなの!」「学校に行かなきゃ、まともな人間になれないわよ!」と怒鳴った。その声が、俺の心を締め付けた。父は何も言わないのに、その存在そのものが重かった。「勉強して大学には行けよ」「私のように立派な大人になりなさい」父の口から出るのは、いつも俺の将来への「理想」ばかり。俺がどれだけ傷つき、苦しんでいるのか、彼らは全く理解しようとしなかった。妹は、俺が学校に行かない理由を友達に聞かれるたびに、悲しそうな顔をしていた。その悲しそうな顔が、俺を罪悪感で押し潰した。彼らの存在が、俺を押し入れから出られなくしていた。

しかし、ぬるりがそんな両親を変えた。母の言葉は意味をなさなくなり、父はまるで記憶を失ったかのように振る舞い始めた。俺は初めて、心からの安堵を覚えた。恐怖よりも、解放感が勝る。今まで感じたことのない、清々しいほどの自由。ぬるりが奪い去ってくれたものは、家族という名の重荷だった。

もう、何にも縛られることはない。押し入れの暗闇は、もはや安息の地ではなく、外の世界は、俺を拒絶する場所ではない。ただ、無限の可能性が広がる、広大な空間だ。俺はゆっくりと立ち上がった。十年ぶりに感じる、自分の足で大地を踏みしめる感覚。重かった体が、こんなにも軽い。まるで、新しい命が吹き込まれたかのように。


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