ぬるり一覧

私はぬるりです。移りゆく生命の美しさを捉える静謐な(   )です。

  • ぬるり018
    一.クラウド上の記憶 平成の終わり、とある地方都市。深夜のコンビニエンスストアでアルバイトをする大学生の修平は、その日、奇妙なものを目撃した。店の裏口でゴミを捨てようとした時、空中に浮かぶ、真っ黒な球体。大きさはバスケットボールほどで、表面は漆黒の闇を凝縮したかのように、一切の光を反射しない。 「なんだ、あれ?」 修平が恐る恐る手を伸ばすと、球体はまるで意思を持つかのように、ぬるりと横に滑った。何度か試しても、触れることはおろか、風さえ感じない。それはそこに存在しながら、存在しないかのように修平の指をすり抜けていった。その日から、修平の日常に「ぬるり」が忍び寄るようになった。 最初はただ浮いているだけだった「ぬるり」だが、やがて不気味な現象を引き起こし始める。ある日、修平は友人の名前を思い出せなくなった。次に、大学の授業内容が頭から抜け落ちた。そして、ついには自分の家族の顔さえも曖昧になっていく。 記憶の喪失は、日を追うごとに加速していく。修平は焦った。しかし、修平がスマートフォンで「家族 名前」と検索すると、画面には母や妹の名前が表示され、彼らの顔写真まで出てくる。友人の名前を検索すれば、その友人のSNSプロフィールが瞬時に表示された。まるで、自分の失われた記憶が、インターネット上に保管されているかのようだった。  「ぬるり」による記憶の侵食が加速する一方で、修平は奇妙な事実に気づき始めた。失われたはずの記憶が、インターネット上には明確な形で残されている。まるで自分の脳から吸い出された情報が、クラウド上にバックアップされているかのようだ。 ある日、修平は高校時代の友人との再会を控えていた。しかし、彼の顔も名前も思い出せない。「ぬるり」がすぐそばを漂っている。修平は意を決して、スマートフォンの検索窓に「高校 友人」と入力した。すると、画面にはまぎれもなくその友人の名前と、彼の顔が写った集合写真が表示された。修平は写真を見つめ、少しずつ記憶をたぐり寄せようとした。 友人との再会は、ぎこちなかった。「久しぶり」と声をかけられ、修平は反射的に「久しぶり」と返したが、心の中では「この人は誰だ?」という疑問が渦巻いていた。友人が語る高校時代の思い出話を聞くが、まるで誰か他人の人生を聞いているようだった。言葉は耳に入ってくるのに、感情が追いつかない。スマートフォン無しでは、自分の過去は失われてしまった。 二.同期完了 ある晩、修平はアパートの部屋で、大量の検索履歴が残るスマートフォンを握りしめていた。自分の家族の顔、友人との思い出、大学での講義内容。すべてがインターネット上にある。修平は、インターネットを通してしか自分自身を認識できなくなってしまった。 その時、「ぬるり」が修平の目の前で、これまでになく強く脈動した。その振動は、修平のスマートフォンからも、かすかに同調するような音が聞こえてくる。スマートフォンの画面が、まるで「ぬるり」の表面のように漆黒に染まり、その中央に、進捗バーが浮かび上がった。進捗バーは、0%からカウントをはじめ、100%を目指してゆっくり伸びていった。 進捗バーがゆっくりと伸びていく間、修平の脳は急速に回転していた。進捗バーはじわじわと進んでいく。5%、12%、18%……。そのたびに、走馬灯のように断片的な記憶、笑い合った友人の顔、食卓を囲んだ家族の声、講義室のざわめき……あの時思い出せなかった記憶が、ぐるぐると修平の脳を駆け巡った。 やがて、進捗バーが100%に到達した。その時、 「修平:クラウドへ同期完了しました」 と表示されたスマートフォンだけを残して、部屋には誰の姿も無くなっていた。
  • ぬるり017
    一.ぬるりの文様 春も終わりに近づいた、やや蒸し暑い日の夕暮れだった。僕は、いつものように公園で友達と遊んでいた。日常の音の中に、それは突然現れた。 地面から数センチ浮遊する、掌サイズの黒い球体。まるで墨を溶かしたかのような、何の変哲もない、ただ真っ黒なそれ。僕たちは興味津々で近づいた。 「なんだこれ?」 先に手を伸ばしたのは、好奇心旺盛な友人だった。指先が触れようとした瞬間、それは「ぬるり」と音もなく横に滑り、彼の手をかわした。 その日以来、「ぬるり」は僕たちの間でちょっとした話題になった。近所の公園だけでなく、通学路、神社の境内、果ては僕の家の庭にも現れるようになった。最初は面白がっていた僕たちも、次第にその不気味さに気づき始めた。 ある日、いつも元気なサクラが学校を休んだ。連絡網で回ってきたのは、「高熱でうなされている」という情報だった。その日の夕方、僕はサクラの家の前を通った。二階の窓に、あの黒い球体が張り付いているのが見えた。 次の日、サッカー部のエースであるタケシが練習中に突然倒れた。病院へ運ばれても原因不明。僕がタケシの家の前を通ると、やはり窓に「ぬるり」が張り付いていた。 「ぬるり」は、それに触れようとした者の生気を吸い取る。 そして、ついにその日は来た。母親が、朝からひどく気分が悪そうだった。その日の夕方、僕は自分の部屋の窓に、あのぬるりが張り付いているのを見てしまった。心臓が凍りついた。 僕は母親を守らなければ。その一心で、僕は「ぬるり」に手を伸ばした。何度も何度も、触れようとしてはすり抜ける。焦燥感が僕を支配する。その時、僕はふと、いつもと違う感覚に気づいた。 「ぬるり」は、僕の右手を避ける。しかし、左手には反応しない。 僕は左手をゆっくりと「ぬるり」に伸ばした。すり抜ける感覚はない。そして、指先が、確かに「ぬるり」に触れた。 ぐにゅり、と得体の知れない感触が左手に伝わる。僕はそれを掴んだ。 その瞬間、僕の左手は、まるでインクの中に浸したかのように真っ黒に染まった。「ぬるり」は、僕の掌の中で泡のように消えていく。そして、消えたはずの「ぬるり」の痕跡が、僕の左手の甲に、まるで墨で描かれた文様のように浮かび上がった。 翌日、母親はすっかり元気になっていた。しかし、僕の左手は、あの日のまま、黒い文様が刻まれていた。そして、僕の周りから、「ぬるり」の姿は消えた。 二.二十年後 20年後、彼は32歳になっていた。あの日の出来事は、彼にとって遠い記憶の彼方に追いやられ、左手の甲に残る黒い文様も、単なる奇妙な痣として受け入れていた。医師からは「原因不明の皮膚の色素沈着」と言われ、特に生活に支障もなかったため、気にすることもなかった。 しかし、最近、ある奇妙な変化が起き始めていた。ここ数ヶ月で、左手の黒い文様が、僅かに、しかし確実に広がっていることに気づいた。最初は気のせいだと思っていたが、日に日にその範囲は広がり、まるで墨汁を垂らしたかのように、彼の腕を這い上がろうとしている。 ある晩、彼は悪夢で目が覚めた。夢の中では、あの「ぬるり」が、無数に、どこまでも広がる闇の中で蠢いていた。そして、その一つ一つが、左手の文様と同じ形をしていた。そして翌朝、彼の左腕の大部分は、完全に漆黒の文様に覆われていた。 その日の午後、彼はひどい頭痛に襲われた。視界がぼやけ、平衡感覚が失われる。意識が遠のきかけたその時、彼は自分の体から、あの黒い球体が、いくつも、いくつも、ふわふわと飛び出してくるのを見た。 「ぬるり」は消えていなかった。あの日、彼が掴んだことで、それは体内に取り込まれ、20年の歳月を経て、再び新たな形で世界に解き放たれようとしているのだ。
  • ぬるり016
    一.穴だらけのカレンダー 僕が初めて「ぬるり」に出会ったのは、ちょうど奇妙なカレンダー事件が起こるときと同じだった。それはまるで、闇が凝縮されたような、手のひらサイズの黒い球体。宙を微かに漂い、僕が手を伸ばすと、ぬるりと空気のようにすり抜けた。掴めない、でも確かにそこにあった。 最初は気のせいだと思った。けれど、ある朝、目にした日めくりカレンダーの日付が、一日ずれていることに気づいた。今日は確かに火曜日だったはずなのに、カレンダーは水曜日を指している。僕の記憶には火曜日の出来事がすっぽり抜け落ちていた。まるで、その一日が存在しなかったかのように。 「ぬるり」を見るたびに、この現象は起こった。最初は一日、次に二日。やがて、僕の日常は穴だらけになった。週の半分が、僕の知らないうちに過ぎ去っていく。家族や同僚との会話も噛み合わないことが増えた。彼らは僕が経験していない「昨日」の話をする。僕だけが、時間から取り残されているようだった。意識が途切れる感覚はない。ただ、あるはずの時間が、そこにはないのだ。 次第に、僕の認識していない日が、僕が認識している日を、遥かに上回った。二度と目覚めなければどうしよう。このまま、僕の意識は、いつか完全に消え去ってしまうのだろうか。自分が溶けて、存在そのものが曖昧になるような、底知れない恐怖が僕を支配した。 二.ある男の人生 ある男は「ぬるり」に出会って、人生が変わった。それは、掌ほどの大きさの、揺蕩う漆黒の球体。触れようとすると、球体はまるで意思を持つかのように、ぬるりと滑り、掴めないものだった。 男の人生は、ずっと夢の中にいるようだった。漠然とした不安、常にどこかぼやけた視界。しかし、ある日、奇妙な黒い球体、「ぬるり」を見たときから、男は明確に覚醒するようになった。 「ぬるり」を見るたびに、覚醒する。最初は数日に一度。やがて頻度は増し、男は週の半分を、はっきりと目覚めて過ごせるようになった。視界は鮮明になり、思考は明晰。かつて夢のように曖昧だった世界が、色鮮やかに、そして確固たるものとして目の前に現れた。 「ようやく、俺は生きている!」 男は喜びを隠せない。夢の中でしか生きられなかった自分から解放されたのだ。家族や同僚との会話も心から楽しめるようになった。失われたと思っていた時間を取り戻したかのように、彼は毎日の出来事を、はっきりと記憶し、五感で味わうことができた。 「ぬるり」を見る頻度はさらに増し、ついに男は、毎日を完全に覚醒して過ごせるようになった。彼は「ぬるり」に感謝した。世界がこんなにも鮮やかだなんて。自分は最高の人生を送っている、と心から信じることができた。 三.ハッピーエンド その男は僕だった。男が得た世界は、実は僕が失った時間によって構築されたものだったのだ。「ぬるり」は、僕から時間を奪い、その奪われた時間の中で、もう一人の僕を覚醒させていたのだ。 その後も僕は永遠に、目覚めることはなかった。僕が失った日常を、彼は永遠に享受しつづけた。僕の人生は、彼にとってのハッピーエンドとして消費されていった。
  • ぬるり015
    一.狂絵師、新五郎 時は文政。江戸の片隅に、古びた長屋がございました。そこに住まうは、絵師の新五郎と申す男。近頃、得体の知れぬ怪異に悩まされておりました。夜な夜な現れるは、漆黒の球体。墨を固めたように真っ黒で、しかし朧(おぼろ)げに光を放ち、宙を漂うておる。新五郎が手を伸ばせば、ぬるりと肌を滑り抜けて、掴むこと叶わず。その度ごとに名状し難き恐怖が彼を襲うたのでございます。 ある夜、新五郎はいつものように絵筆を握っておりました。されど、どうにも筆が進まぬ。あの「ぬるり」の残像が脳裏をちらつき、集中できぬゆえ。その時、ふと自身の筆跡に違和感を覚えました。描いた覚えのなき、奇妙な螺旋(らせん)や、おぞましき目玉のような模様。そして絵が完成すると、絵の中の目がぎょろりと動き、部屋に充満しておった墨の匂いは、たちまち腐臭へと変わりました。吐き気を催すほどの悪臭に、新五郎は思わず絵筆を取り落としたのでございます。 その日を境(さかい)に、新五郎の周りでは不可解な出来事が頻繁に起こり始めました。新五郎が描きしは、名高き歌舞伎役者・片岡華之丞(かたおか はなのじょう)の肖像画。その絵が、時間の経過とともに徐々に老いてゆくことでございます。皺(しわ)が刻まれ、肌は弛(たる)み、生気なき目になってゆく。さらに恐ろしゅうございましたのは、本物の華之丞にも、同じように皺が刻まれ、肌が弛み、生気なき目になってゆくことでございます。あたかも絵に描かれた者の命が、少しずつ吸い取られているかのようであったと申します。 新五郎は悟りました。この「ぬるり」と申すは、絵を通じて人の生気を吸い取る、呪われた存在なのだと。そして、自分が描く絵がその媒体となっていることに、彼は深く絶望したのでございます。 二.孤独の果てに 呪いの正体を知りて以来、新五郎は閉じこもるようになりました。町の者たちも、彼を不吉なものとして避けて通ります。もとより新五郎は孤独な身の上。前の大火にて両親も、そして最愛の妻も失い、たった独りでこの長屋に暮らしておったのです。彼の日課と申せば、ただただ絵を描き、その絵と対話することのみ。それ以外に変わらぬ日々を送っておりました。 ある日のこと。彼は一つの思いつきに辿り着きました。もし自分の筆が生者の命を奪うのであれば、死者を描いたならば、一体どうなるであろうか、と。 その閃きに従い、新五郎は筆を執りました。描いたのは、すでに黄泉(よみ)の国へと旅立った、最愛の妻の肖像画でございます。愛しき面影を屏風に写し終えると、不思議なことに、絵の中から確かに妻の声が聞こえてきたのでございます。 「あなた、まだ、ここにいてくださったのですね…」 新五郎は夢中で語りかけました。妻に伝えられなかった感謝の言葉、果たせなかった約束、そして孤独な日々を。妻もまた、彼に応えるかのように語りかけてくる。その温かい声に包まれ、新五郎はこれまでの孤独が嘘のように消え去るのを感じました。彼は幸せでございました。もう、独りではなかったのです。 三.魂の混濁 さような平穏な日々がしばらく続いた、ある日のこと。彼の長屋を訪問者が訪ねてまいりました。戸口から中を覗き込んだ訪問者は、思わず息を呑みます。 部屋の中では、新五郎が虚ろな目で宙を見つめ、独り言をずっと呟(つぶや)いているではございませぬか。彼の口から紡がれる言葉は、時折、女の声に変わる。それは、新五郎自身が語っているようで、しかし明らかに異なる言葉遣いや声色を帯びておりました。 さよう、新五郎自身に、最愛の妻の魂が憑依(ひょうい)してしもうたのでございます。彼は妻と対話しているのではない。彼の肉体は妻の魂に乗っ取られ、彼の精神は、妻の記憶と感情に深く侵食されておりました。 新五郎は、狂い果ててしもうたのです。 彼の瞳に宿る光は、もはや絵師としての鋭さではなく、か細き狂気と、そして二つの魂が混じり合った、混沌とした光でございました。彼は、永遠に妻との対話を続けるかのように、ただ独り、薄暗き長屋で呟き続けておりました。その傍に、ぬるりとした黒い球体が転がっていたとか、いないとか。 これにて、絵師・新五郎の哀しき物語は幕を閉じるのでございます。
  • ぬるり014
    一.ぬるりとともに現れる不幸 昭和の終わり、ある町。小学四年生の美咲は、裏山の神社で奇妙なものを見つけた。それは、人の頭ほどの大きさの、漆黒の球体だった。表面は滑らかで、光を吸い込むように鈍く輝いている。好奇心から手を伸ばすと、それはまるで煙のように、するりと指の間をすり抜けた。 「ぬるり……」 美咲は、その奇妙な感触と、得体のしれない存在に名を与えた。それからというもの、「ぬるり」は美咲のそばを漂うようになった。学校に行く時も、友達と遊ぶ時も、まるで影のように美咲の後をついてくる。 美咲は、学校が少しだけ嫌になっていた。昔は無邪気に笑いあえた友達。今は何となく距離を感じてしまうのだ。友達に「ぬるり」の話をしたが、誰もその存在に気づかない。美咲が指差しても、友達はちょっと馬鹿にした口調で、そんなのいるわけないじゃん、と嘲笑った。私は、そうだよね!とわざと笑顔を作って言った。 ある日、美咲の飼っていた金魚が死んだ。水槽の底で横たわる金魚の横に、「ぬるり」が静かに浮かんでいた。母に言っても、あんたがちゃんと世話しないからでしょう、捨ててきなさい、と言われ、泣く泣く公園へ埋めてきた。 その翌日、美咲の祖父が病で倒れる。その枕元にも、「ぬるり」がいた。母は、祖父を好きじゃなかった。あーあ、あの人をまた病院に連れて行かなきゃいけない、あんな人、早くいなくなればいいのに。と母がつぶやき、美咲は嫌な気持ちになった。でも、美咲はそうだよね、早くいなくなればいいのに、と母に同調した。 美咲は一人になって、自己嫌悪とともに、分析した。「ぬるり」が現れると、必ず不幸が起きるのだ。しかし、その因果関係を誰にも説明できない。美咲は恐怖に震えながらも、「ぬるり」から目を離せなかった。 二.老女ハルの教えた奇跡 不安と孤立の中、美咲は一人で古本屋を営む老女・ハルに出会った。ハルは美咲の話を真剣に聞いてくれた唯一の人物だった。美咲は最近の誰にも話せなかった悩みと、その傍には必ず「ぬるり」がいたことをハルに打ち明けた。 「あんたの見てるそれは、きっと『禍玉(まがたま)』だよ。触れると、大切なものと縁が切れるんだ。」ハルはそう言って、古びた書物を見せた。そこには、まさに「ぬるり」の姿が描かれ、様々な不幸の事例が記されていた。 ハルの助言に従い、美咲は「ぬるり」に触れないよう必死で避けるようになった。しかし、「ぬるり」はまるで美咲の感情を読み取るかのように、執拗に美咲の周りを漂う。ある晩、美咲は悪夢にうなされた。夢の中で、「ぬるり」は巨大な口を開き、美咲の大切なものを次々と飲み込んでいく。 翌朝、美咲は高熱を出した。朦朧とする意識の中、枕元に「ぬるり」が浮かんでいるのが見えた。私もみんなと縁が切れて死んでしまうのかな、と美咲は不安になった。しかし、それはいつもと違っていた。黒い球体の中に、かすかに、何か白いものが透けて見える。よく見ると、それは美咲がこれまで触れてきた、大切なものの“記憶”のような光の粒だった。金魚の鱗、祖母の皺、友達の笑顔。 美咲は、震える手で「ぬるり」に触れた。すると、あの滑らかな感触の奥から、冷たい、硬い芯のようなものがあることに気づいた。それは、ガラス玉のように透明で、中に白い光が閉じ込められている。同時に、美咲の頭の中に、ハルの声が響いた。「禍玉は、触れられることで、縁を『結び直す』ことができるんだよ」。 美咲の熱は嘘のように下がった。そして、「ぬるり」は姿を消した。美咲の祖母は奇跡的に回復し、金魚も新しい命を吹き込まれたかのように元気に泳ぎ出した。全てが元通りになったかに見えた。しかし、美咲の視点では、いくつかの違和感が残った。それは、金魚の模様が少しだけ違っていたこと、そして、ハルという老女の存在が、町の誰の記憶にもないことだった。 三.繋ぎなおす力 その日から、美咲は少しずつ、自分の「本当の気持ち」を言葉にするようになった。友達が話を馬鹿にしても、笑ってごまかすのをやめた。 「私は見たんだよ。黒くて、ぬるっとしてて……でも、怖くないの。」 最初は、また笑われるだけだった。でも、美咲の目が真剣なことに気づいたのか、やがて友達も話を聞くようになった。そして不思議なことに、美咲の話を信じる子が少しずつ現れた。 母親に対しても、勇気を振り絞ってこう告げた。 「おじいちゃんのこと、いらないとか言わないで。私、おじいちゃんと一緒にいた時間、楽しかったもん。金魚だって、私が名前つけたんだよ。忘れちゃったの?」 母親は目を伏せて、美咲に謝った。その日から、美咲と母の距離も、ほんの少しずつ変わっていった。母は祖父に優しく声をかけるようになり、美咲の話を真面目に聞いてくれるようになった。「ぬるり」の力で、たしかに「縁」がつながり直していくのが感じられた。 「ぬるり」が縁を切ってしまうのか、縁を繋ぎなおしてくれるのかは、自分次第なのかもしれない。そして、それは「ぬるり」が居なくても同じこと。そのように、美咲はこれからの長い人生で学んでいくことになるのだろう。
  • ぬるり013
    一.弱虫ミウ 美羽は、生まれたときから怖がりだった。夜、布団の中で聞こえる風の音にも怯え、テレビで見るホラー番組には一秒も耐えられずに泣き出していた。小学校の肝試しでは、真っ先に泣き崩れたことで「弱虫ミウ」という不名誉なあだ名がつき、しばらくクラスの笑い者だった。 年齢が上がるにつれ、周りには怖がりな自分を馬鹿にする人はいなくなった。だが、美羽は内心ずっと思っていた。臆病な自分を乗り越えて強くなりたいと。 二.ぬるりとの邂逅 大学に進学してから、美羽は新たな友人たちと出会い、その中の一人、心霊スポット巡りを趣味にする沙耶と親しくなった。沙耶は美羽の内なる「恐怖」と向き合いたいという気持ちを知ると、ある日こう誘った。 「美羽、私と一緒に廃病院に行かない? ちょっと変な噂がある場所なんだけど…なにか、感じるかもしれないよ」 廃墟マニアの間で密かに有名なその病院は、かつて無免許医が手術を繰り返し、複数の死亡事故があったとされる曰く付きの場所だった。美羽の心は大きく揺れた。怖い。でも、乗り越えたい。 その病院の奥にある手術室跡で、二人は異様なものを見つけた。空中に浮かぶ、漆黒の球体。光を吸い込むような黒。美羽は元来怖がりだが、その存在には不思議と好奇心を覚えた。沙耶が手を伸ばすが、球体はすり抜け、まるでそこに「あるのにない」ような感触だった。 「……ぬるり、って感じだね」 思わずこぼれたその言葉が、後にその球体のあだ名となった。 美羽が恐る恐る「ぬるり」に触れた瞬間、奇妙な感覚が全身を駆け抜けた。冷たくもなく、暖かくもない、存在の輪郭すら曖昧な何か。そして、心の奥深くにあった恐怖の「根」が、ふっとほどけていくような感覚だった。 三.ミウの変化 その日から、美羽は変わり始めた。夜道も怖くなくなり、不意の音に驚くこともなくなった。地下鉄での痴漢にも毅然と立ち向かい、感謝されることもあった。 友人たちは、口をそろえて「最近のミウは、まるで別人みたい」と言った。自信に満ち、笑顔も明るくなった彼女に、周囲の評価も上がっていった。美羽自身も「これが本当の私なのかもしれない」と思い始めた。 それからというもの、美羽は暇を見つけては「ぬるり」を探し、触れるようになった。その奇妙な球体に触れるたび、まるで見えない鎧が、自分を包んでいくようで、それが美羽にはうれしかった。 しかし、何も怖くないということは、何も感じないということだった。美羽はだんだんと平凡な日々に物足りなさを感じるようになっていった。かつては、物音、視線、夜の影――あらゆるものが脅威に思えた。だが今では、ただ退屈だ。何も怖くない自分が、本当に“生きている”と感じるためには、何が必要なんだろう。美羽は、そんなことを考えるようになっていた。 美羽と一緒に心霊スポットを巡った。山道を一人で歩いた。絶叫マシン。ビルの屋上。バンジージャンプ。色々な肝試しをした。しかし、作られたスリルでは、美羽の「飢え」は満たされないと感じていた。 四.快楽と恐怖 ちょうどその頃、美羽は自動車免許を取得したばかりだった。ある日、レンタカーを借りて、美羽がハンドルを握り郊外へと国道を走った。美羽は、運転するにつれ、ハンドルを握る爽快感を、だんだんと自覚し始めた。 助手席で不安そうに沙耶が尋ねた。 「美羽、初めての長距離運転だよね? ゆっくり行こう?」 しかし、美羽は笑って返した。 「うん、大丈夫。風に乗るだけだから」 そう言いながら、アクセルを深く踏み込んだ。エンジンが唸りを上げ、車は急加速した。スピードメーターはあっという間に100を超え、120、140、そして160kmにまで達した。 「ちょ、ちょっと待って、美羽、マジでやばいって! スピード出しすぎ!」 「大丈夫だよ、怖くない。」 沙耶の声は必死だったが、美羽の表情はどこかうっとりしていた。目の奥に、奇妙な熱が宿っていた。それは快楽に近い何かだった。 そして、漆黒の球体--「ぬるり」が、音もなく彼女たちの車の脇をすり抜けていった。車の速度はあまりに速く、それは誰にも気づかれることはなかった。 その時、道がカーブに差しかかる。美羽はほんの刹那、それに気づいていた。だが、ハンドルに触れる指は動かなかった。――どうなるか、試してみたい。との一瞬の欲望が、美羽にハンドルを固定させ、 次の瞬間、目前に白く錆びたガードレールが迫り、美羽は久しく忘れていた恐怖を (おわり)
  • ぬるり012
    一.暗闇の押し入れ 押し入れの奥底に埋もれるようにして、俺は息を潜めていた。学校に行けなくなり、はや十年。日光すら憎い、この暗闇が俺のすべてだった。母の足音が遠ざかるのを確認して、スマホの画面に目を落とす。しかし、その日は違った。画面の端、光の粒子が蠢くようにして現れた黒い球体。それが「ぬるり」との出会いだった。 初めてそれを認識したのは、スマホの画面に映る自分の顔の横だった。触ろうと指を伸ばすと、ぬるりと視界から消えた。 最初はただの幻覚だと思った。しかし、日を追うごとにその存在は確かなものになっていく。ある日、俺が押し入れから這い出て、リビングのソファに座り込んだ時だ。母が「ユウト、あんた、いつまでそうしてるつもりなの!」といつものように捲し立てた。その瞬間、「ぬるり」が母の頭上を漂い、次の瞬間、母は突然、言葉を詰まらせた。 「何、を…」 母の口から出たのは、聞いたことのない、奇妙な音だった。それはまるで、長年愛用していた機械が突然、壊れたような音。母はそのまま、焦点の合わない目で宙を見つめ、ピクリとも動かなくなった。俺は恐怖で体が震えた。まさか、「ぬるり」の仕業なのか? 「ぬるり」はその後も、俺の周囲で奇妙な現象を起こし続けた。父は、急に隣人に「あんた、誰だ?」と尋ね、まるで記憶を失ったかのように振る舞い始めた。妹は、鏡に映る自分を指差し、「これ、私じゃない!」と叫び、別人格に変わってしまったかのようだった。家族が、まるで操り人形のように変わっていく。それなのに、俺だけは「ぬるり」の影響を受けない。いや、正確には、俺にはもともと影響を与えるものがなかった。社会との繋がりも、家族との絆も、全てが希薄だった俺には、「ぬるり」が奪うものが何もなかったのだ。 ある夜、恐怖と安堵がないまぜになった奇妙な感情の中で、俺はふと、リビングに浮かぶ「ぬるり」に手を伸ばした。いつものようにぬるりとすり抜ける。しかし、今回は違った。指先が、ほんの一瞬、粘つくような感触を捉えた。そして、その瞬間、俺の頭の中に直接、過去の記憶がフラッシュバックした。 小学五年生の時、初めて不登校になった日のこと。教室の隅で、俺の机はいつも笑い声の中心だった。教科書は落書きされ、筆箱にはごみが入っていた。ある日、給食の時間に、俺の皿に砂がかけられた。担任の先生に訴えても、「仲良くしなさい」の一言。家に帰って母に話しても、「ユウトにも悪いところがあるんじゃないの?」と、まるで俺が悪いかのように言われた。父はテレビを見ながら「男なら我慢しろ」とだけ。 それからも、学校でのいじめはエスカレートしていった。上履きは隠され、体操服は泥だらけにされた。トイレに閉じ込められ、水をかけられた。その時、俺の心は完全に壊れた。学校に行くのが怖くて、体が震えた。 母は毎日、昼になると押し入れの前まで来て「ユウト、あんた、いつまでそうしてるつもりなの!」「学校に行かなきゃ、まともな人間になれないわよ!」と怒鳴った。その声が、俺の心を締め付けた。父は何も言わないのに、その存在そのものが重かった。「勉強して大学には行けよ」「私のように立派な大人になりなさい」父の口から出るのは、いつも俺の将来への「理想」ばかり。俺がどれだけ傷つき、苦しんでいるのか、彼らは全く理解しようとしなかった。妹は、俺が学校に行かない理由を友達に聞かれるたびに、悲しそうな顔をしていた。その悲しそうな顔が、俺を罪悪感で押し潰した。彼らの存在が、俺を押し入れから出られなくしていた。 しかし、ぬるりがそんな両親を変えた。母の言葉は意味をなさなくなり、父はまるで記憶を失ったかのように振る舞い始めた。俺は初めて、心からの安堵を覚えた。恐怖よりも、解放感が勝る。今まで感じたことのない、清々しいほどの自由。ぬるりが奪い去ってくれたものは、家族という名の重荷だった。 もう、何にも縛られることはない。押し入れの暗闇は、もはや安息の地ではなく、外の世界は、俺を拒絶する場所ではない。ただ、無限の可能性が広がる、広大な空間だ。俺はゆっくりと立ち上がった。十年ぶりに感じる、自分の足で大地を踏みしめる感覚。重かった体が、こんなにも軽い。まるで、新しい命が吹き込まれたかのように。
  • ぬるり011
    一.原人とぬるり これは、猿が人間に進化する途中の話。 「太陽が、沈む。」 集落のリーダーであるガクは、発達したばかりの言語で集団に伝えた。今日狩れた獲物は小さく、皆の顔には疲労と不満が滲む。火も無い時代。日が沈めば、いくら食料が少なかろうが狩りを辞め、危険な夜を耐え忍ばなくてはならない。彼らは、常に飢えに苦しんでいた。 そんな中、長老が遠くの森の奥を指さした。「あれ。」。彼らが目にしたのは、闇に溶け込むような黒い球体だった。宙に浮遊し、まるで生きているかのように微かに揺らめいている。それはこれまで見たこともない、異質な存在だった。ガクが好奇心に駆られて手を伸ばす。しかし、触れようとした瞬間、「ぬるり」と球体は横に滑り、彼の指先をすり抜けた。 次の日も、「ぬるり」は集落の周辺を漂い続けた。それは何もせず、ただそこにいるだけだった。人々は、次第に気にしなくなっていった。 二.奇妙な恵み ある日、ガクが水を探して森を彷徨っていると、地面が震えるほどの足音が響いた。現れたのは、巨大なナウマンゾウだった。しかし、そのナウマンゾウは奇妙だった。他の個体が持つような警戒心や凶暴さがなく、まるで何か深い夢の中にいるかのように、ぼんやりとした目で立ち尽くしている。その周りを、「ぬるり」がいくつも浮遊していた。 ガクは直感した。「ぬるり」が、この巨大な獣の抵抗する力を奪っているのだと。彼は急いで集落に戻り、男たちに事態を伝えた。「ぬるり。狩り。うまくいく。」飢えに苦しむ男たちは、半信半疑ながらもガクの言葉に従った。そして、容易くナウマンゾウを仕留めることに成功した。 集落には久しぶりに活気が戻った。人々は「ぬるり」を、飢えから救ってくれた奇妙な恵みとして受け入れ始めた。「ぬるり」を追いかけて、集落を移動するようになった。だが、ガクだけは違和感を覚えていた。 ガクは、狩りの最中に見たナウマンゾウの虚ろな目を忘れられなかった。そして、集落の人々の顔にも、喜びや悲しみといった感情の起伏が薄れ、どこか平坦な表情が増えていくように見えた。彼らの目には、かすかな黒い光沢が宿り始めていた。 三.ぬるりに冒された者たち ある夜、空を切り裂くような雷鳴が轟き、激しい雨と共に山火事が発生した。燃え盛る炎は瞬く間に森を飲み込み、集落へと迫ってくる。他の部族が恐慌状態に陥り、我先にと安全な場所へ逃げ惑う中、ガクの集落の者たちは違った。 彼らは炎を見つめていた。その顔には、恐怖も驚きも、そして逃げようとする本能すらも読み取れなかった。彼らの目は、まるで燃え盛る炎そのものが持つ熱と光に、ただ無感情に魅入られているかのようだった。ガクは叫んだが、彼らは動かない。 その男たちは炎に焼かれることもなく、地面に落ちた燃える枝を拾い上げた。まるで、それが何十年も前から知っていた道具であるかのように、彼らは無感情にたいまつを手にしていた。彼らの目には、恐怖ではなく、ただ茫洋とした認識の光だけが宿っていた。 彼らは燃え盛るたいまつを掲げ、燃え広がる森の奥へと進んでいく。その姿は、まさに「ぬるり」に冒された存在だった。 四.対立 火事がおさまって数日後。ガクたちはダンスをしたり歌を歌ったりして身の無事を喜び合った。しかし心無きものは、「ぬるり」に冒され火の力に魅せられるにつれ、日々を「役に立つか否か」で測るようになっていた。 焼け焦げた森の匂いがまだ漂う中で、集落は大きく二つに分かれ始めていた。やがて、心無きものたちは「感情は不要」と言い始め、火の力を新たな価値として掲げた。 「止めるな、ガク。我々は、効率的な道を進むだけ。」 「効率だと?喜んだり悲しんだりすることも必要じゃないか。」ガクは拳を握りしめた。 男は何も言わず、ゆっくりとガクに近づいてきた。その手には、燃える枝が握られている。ガクは覚悟を決めた。心なき者たちと、心を持つ自分。どちらが正しいのか、ここで決着をつけるしかない。 ガクは地面に落ちていた鋭い石を拾い上げた。男が振り上げた燃える枝を避け、渾身の力で石を振り下ろした。しかし、狙いはわずかに逸れ、石は男の肩をかすめ、地面に転がっていた別の石に激しくぶつかった。 キィン! 甲高い音と共に、暗闇の中に赤い火花が散った。 五.新たな価値 男も、そしてガクも、その火花に目を奪われた。ガクはもう一度、石と石を打ち付けてみた。再び、火花が散る。何度も繰り返すうちに、小さな燃えカスが生まれ、それが枯れ葉に引火した。 ぼう、と小さな炎が生まれた。 男の虚ろな目に、わずかな変化が見られた。それは驚き、そして理解。感情の薄い声で、男が呟いた。「…これは…」 心なき者たちは、ガクが作り出した炎に、それまで見せたことのない反応を示した。彼らの目は、火の熱と光に吸い寄せられるように輝き、その中に微かな感情の兆しが見えた。彼らはガクに近づき、火を囲んで座った。 男は静かに言った。「…無駄、ではなかったのか。」 ガクは首を横に振った。「ああ、無駄じゃなかった。むしろ、お前たちが失いかけていた、大事なものを取り戻すきっかけになったんだ。」 ガクはその後も、新しい狩りの方法や、獲物を効率的に解体する道具、そしてより複雑な意思疎通を可能にする言語の概念を次々と発見していった。彼が何か新しい試みを始めると、最初は「無駄だ」と反対する者もいたが、やがて彼の発見が彼らの生活を豊かにすることを知り、積極的に協力するようになった。 「ぬるり」は姿を消し、代わりに人々の心には、好奇心と探求心という新たな炎が灯った。
  • ぬるり010
    一.3年前の事故 20世紀も終わろうとする頃、街のミニ遊園地が廃業してから三年が経った。駅前の商店街もシャッターが降り、人影もまばらなこの街で、奇妙な噂が囁かれ始めた。黒い球体。それは誰もが触れられず、まるで実体がないかのように「ぬるり」と指の間をすり抜けるため、人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。「ぬるり」は、人の記憶を奪ったり、運命を変えたりすると囁かれていた。 主人公は、高校を出たばかりの青年、健斗。働かなければとわかっていても、気力が湧かず、ただ毎日をぶらぶらと過ごしていた。彼の心には、あるものがずっと沈殿していた。 ――三年前の、あの事故。 あのとき彼は、幼馴染だった結以を初めてデートに誘った。小さな、昔からあったミニ遊園地。当時も寂れていたけれど、観覧車はまだ動いていた。中学最後の春休み。卒業前の、ささやかで甘酸っぱい思い出になるはずだった。 けれど、あの日の午後、観覧車が頂上に差し掛かった瞬間だった。ふと、視界の隅に黒く艶のある球体が、浮かんでいた。 「ぬるり…」 結以がそう呟いた直後、観覧車がギギッと異音を立てて止まり、座席が小刻みに揺れ始めた。 「しっかり掴まって!」 だが間に合わなかった。次の瞬間、大きな揺れとともに結以の体が座席から浮き、観覧車の座席フレームに激しく頭を打ちつけた。赤い色が、空中に舞った。ぬるりの姿は、もう消えていた。 「結以!」 自分の声だけが、空しく遊園地に響いた。 それから、彼女は目を覚ましていない。 二.後悔の日々 彼は今も、ときおり結以の病室を訪れる。無言のまま白い部屋に座り、ただ彼女の寝顔を見つめている。ベッドに横たわる彼女の胸が、かすかに上下しているのを見るたび、「生きている」と確認するように、健斗は小さく息をつく。 ――もし、あの時誘っていなければ。 何度も、何百回も、思い返した。けれど、過去はどうやっても変わらない。純粋な恋だった。他愛ない会話、たわいない時間。それが、これからもずっと続くものだと、疑いもしなかった。彼には、彼女を忘れて前に進む自由があった。新しい誰かと、違う人生を始めることだってできた。しかし、そのような気にもなれず、ただ死んだような日々を繰り返していた。 三.逆回転する運命 ある日、健斗は今は寂れた遊園地の跡地を訪れた。観覧車の残骸が夕日に照らされ、不気味な影を落としている。錆びついた鉄骨を見上げると、あの日の叫びが胸の奥で蘇った。どうしてあんな場所に誘ったのか。どうしてあの瞬間、手を強く握ってやれなかったのか。何度悔やんでも、何度願っても、時間は残酷に前へ進むばかりだった。 そこに「ぬるり」が、再び姿を現した。何も語らず、何も答えず、ただゆっくりと、空中を旋回していた。「あの時の事故は、お前のせいなのかよ!」健斗はやるせない怒りをぶつけるように、「ぬるり」に拳を突き立てた。 その瞬間、「ぬるり」が光を放ち、廃墟の観覧車が、軋んだ音を立てて逆回転を始めた。ギギギ、ギィィィ。錆びついたゴンドラが、ゆっくりと、しかし確実に、過去へと時間を巻き戻していく。それに合わせて、周囲の風景も、色彩を取り戻し、人々の話し声が鮮明になる。 気がつけば、健斗は結以と一緒に、三年前の事故が起こる直前の、あの観覧車の一番高いゴンドラの中にいた。眼下には、輝くネオンに彩られた遊園地が広がり、はしゃぐ子供たちの声が聞こえる。結以は、隣で無邪気に笑っていた。健斗は、咄嗟に結以の手を強く掴んだ。 「結以! しっかり掴まって!」 混乱する結以を必死に抱きしめた。直後、彼らが乗っていた観覧車から、あの事故を引き起こすことになる金属音が響き渡った。しかし、今回は二人とも無事だった。 「ぬるり」は、彼らの頭上をゆっくりと旋回し、そして、夕闇に溶けるように消えていった。健斗は、目の前で驚いた顔をしている結以を見つめ、安堵の息をついた。 四.正しい未来、幸せな未来 その後も、二人は永遠に遊び続けた。廃墟だった遊園地は、「ぬるり」の魔力で活気を取り戻した。色とりどりの屋台の匂い、子供たちの歓声、観覧車から見下ろす夕焼け。すべてが、三年前のあの日、彼らが味わうはずだった幸福な思い出を、今まさに取り戻していった。健斗は、彼女の屈託のない笑顔を見るたびに、胸の奥が温かくなるのを感じた。 しかし、健斗が結以の手を握り返すと、彼女の指先が、今度はひどく冷たく、まるで凍ったように感じられた。結以の笑顔が、ゆっくりと、しかし確実に、曖昧になっていく。「ぬるり」が、健斗の視界の隅を「ぬるり」と横切った。その黒い球体は、以前よりも大きく、より明確に、そこに存在していた。 健斗は理解した。自分も、そして結以も、あの三年前の遊園地の事故で、致命的な怪我を負っていたのだ。彼らが観覧車を降りた瞬間、時間が巻き戻されたのではなく、「ぬるり」が改変した、本来あるはずだった“正しい未来”が、あるべき場所に戻っただけだった。 現実の健斗と結以は、白いシーツに包まれたまま、静かに息をしたまま眠り続けている。一方で、彼らの意識は、永遠に続く夢の中で、幸せな日々を送り続ける。それはどの未来とも異なる、彼らが望んだ「もしも」の世界。決して目覚めることのない、優しい安息の地だった。
  • ぬるり009
    昭和30年代後半、高度経済成長の熱気に浮かされる日本。東京郊外の小さな町、久坂町でも、新しい住宅が次々と建ち並び、人々は未来への希望に胸を膨らませていた。しかし、私は寂寥感を拭えなかった。 私は、過去に縋っていた。古地図を集め、古老の話を聞き、図書館の郷土資料室に通い詰めては、久坂村と呼ばれていた頃の風景を思い描いていた。私にとっての久坂は、草の匂いが香りせせらぎ流れる田園の地であり、今の久坂町が日に日にコンクリートに覆われていく中で、私は取り残されたような気がしていた。 そんな町に、不思議な球体の目撃が相次いだ。「ぬるり」だ。町で最初に「ぬるり」を目撃したのは、豆腐屋の源さんだった。夜中の配達中、路地裏に浮かぶ漆黒の球体。直径30センチほどだろうか、ゆっくりと、しかし確実に浮遊している。源さんが手を伸ばすと、ぬるりとすり抜け、掴めない。まるでそこには何も存在しないかのように。翌朝、源さんがその話をしても、誰も信じなかった。疲れ目のせいだろう、と笑われた。 「ぬるり」の目撃談は次第に増えていった。若い主婦が洗濯物を干している時に、子供が公園で遊んでいる時に。誰もが口を揃えて言う。「ぬるりと消えた」と。 そして、「ぬるり」は不可解な現象を引き起こし始めた。 ある日、町内会長の家で飼われていた愛犬が、夜中に突然、全身の毛が逆立ち、けたたましく吠え始めたかと思うと、翌朝には老いさらばえた姿で発見された。まるで何十年もの時を瞬時に経てしまったかのように。診断は「異常な老化」。医師も首を傾げるばかりだった。 また、町で一人暮らしの老婆が、朝、自宅で倒れているのが発見された。しかし、誰もが驚いたのは、老婆の顔が、ほんの数日のうちにまるで別人のように若返っていたことだった。肌には皺一つなく、髪には艶が戻っていた。 「ぬるり」は、触れたものの時間を巻き戻したり、進めたりする能力があるのではないか――そんな不気味な憶測が町中を駆け巡った。 私は、この一連の異変について私の得意分野にて調査をした。図書館や郷土資料館に通い、古地図とにらみあった。すると、ある奇妙な共通点に気づいた。愛犬が老化した町内会長、老婆が若返った隣人、その他の「ぬるり」の目撃情報。これら全ての場所は、かつて久坂村と呼ばれていた頃に存在した、古い墓地の跡地だったのだ。 そして、ついにその日が来た。久坂町を覆い尽くすかのように、空には無数の「ぬるり」が浮かび、町中の建物が、まるで早送りされた映像のように、築年数に応じた速度で急速に劣化していった。真新しい住宅は瞬く間に朽ち果て、アスファルトの道路はひび割れ、土へと還っていく。「ぬるり」は、音もなく、静かに、この町を、飲み込み続けた。 真新しいコンクリートの建物が瞬く間に木造家屋へと姿を変え、その壁には風雨に晒されたような染みが浮き出てくる。舗装された道路は土へと還り、道の両脇にはかつて見慣れた水路がせせらぎを取り戻していく。高度経済成長の波に乗って建てられた無機質な建造物が消え去り、かつての久坂村が持っていた、懐かしく、温かい息吹が蘇っていくようだった。 私の胸には、奇妙な感覚が渦巻いていた。それは、恐怖や絶望といったものとは少し違っていた。むしろ、意地悪だけれども抗いがたい、心地よさを感じている自分がいたのだ。 私は、思わずほくそ笑んだ。高度経済成長という名の未来に胸を膨らませ、新しいものばかりを追い求めてきた人々。彼らが築き上げたものが、今、無残にも過去へと飲み込まれていく。その様は、まるで、過去に縋りついている私自身の、未来への黒い嫉妬が「ぬるり」と具現化したかのようだった。
  • ぬるり008
    一.跡取り 平成の初期、日本のとある地方都市。バブル崩壊の波を受け、シャッターを下ろした商店が目立つ駅前の一角に、奇妙な噂が数十年ぶりに流れだした。 「ぬるり」 それは、人の頭ほどの大きさの、漆黒の球体。ふわりと宙に浮かび、意思を持つかのようにゆっくりと漂う。手を伸ばしても、まるで霞のように、ぬるりとすり抜けて掴めない。その正体は、誰も知らない。ただ、その黒い球体は、決まって「ある特定の家」の周囲に現れると言われていた。 その家は、この町の旧家である神崎家だった。神崎家は代々、この土地の政治や経済に深く関わってきた。特に、高度経済成長期には、彼らが経営する化学工場が町の主要産業として栄えた。しかし、近年は当主の神崎巌が病に伏せ、その影響力は衰える一方だった。 巌の息子である啓司は、東京の大学を卒業後、実家に戻り家業を継ぐため、町議会への出馬の準備をしていた。 啓司は、何不自由なく育てられた。名家の跡取りとして大切に扱われたが、その周囲ではいくつかの不可解な出来事があった。飼っていた猫や、捕まえた虫が突然消える──そんなことが一度ならずあった。そして、消えたのは小動物だけではなかった。 啓司には妹がいた。妹は先天的な障害を抱えていたが、いつも穏やかに笑っていた。堅苦しい家の中で、啓司が心から気を許せたのは妹だけだった。しかし、その妹も、10歳の誕生日を迎える前に、突然姿を消した。警察も動き、家中が騒然となったはずなのに、不思議なことに、出来事の痕跡そのものが、時間とともに街の記憶から消えていった。 その記憶は啓司の心の奥に暗く沈み、彼の人格を静かに揺らし続けた。 二.ぬるりを見た 「ぬるり」の目撃情報が増えるにつれ、町では奇妙な出来事が頻発するようになった。深夜、神崎家の工場跡地だけが異様な静けさに包まれ、虫の声すら聞こえない。朝になると、隣接する田畑の作物が一夜で枯れ果てている。町の人々は囁き始めた。「ぬるり」は神崎家に忍び寄る不幸の前触れだ、と。あるいは、神崎家が抱えてきた「何か」の化身なのだと。 それと同時に、啓司の身辺で奇妙なことが起こり始めた。かつて彼を支持していた町議会議員が次々と不祥事を起こし、失脚していく。町長選に向けて啓司が用意していた政策提言書は、まったく別の内容に書き換えられていた。 ――まるで、最初からその文書が“正しかった”かのように。 書斎で資料を整理していた啓司の目に映ったのは、窓の外をゆっくりと横切る漆黒の球体だった。啓司は思わず窓を開け、手を伸ばした。だが、「ぬるり」は指先をかすめるように、するりと消えた。 ある日、啓司は父の巌の病室を訪れた。巌はかすれた声で呟いた。 「啓司…ぬるりを見たか…」 「あれは、この土地に巣食う『記憶の穴』だ。我々神崎家は、代々その穴を塞ぐために生きてきた。そのために、大きな代償を支払ってきた…だが、もう…」 巌は言葉を濁し、深く咳き込んだ。その時、病室の窓の外を、漆黒の球体がゆっくりと通り過ぎていった。 三.歪みの演説 数日後、選挙が迫る中、啓司は町民会館で演説をすることになった。 「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。この町の未来を担う者として、私は皆様に、より豊かで活力ある町を築くための私のビジョンをお伝えしたいと思います。長らく停滞していたこの町に、新たな風を吹き込み、若者が戻り、高齢者が安心して暮らせる、そんな温かいコミュニティを…」 壇上に立つ啓司の目に、聴衆の中に混じる奇妙な影が映った。それは、漆黒の球体、「ぬるり」だった。一つ、また一つと、その数は増えていく。すると、啓司の演説に不可解なことが起こった。 「…そのために、私はまず、町の産業基盤を強化し、新たな雇用を創出します。産業…といえば、かつてこの町には、そう、工場がありましたね。神崎化学工場。あれは…ええ、あの頃は、多くのものが生産され、町も活気づいていたはずです。しかし、その陰で…いえ、その話はまた別の機会に。 とにかく、私はこの町が再び輝きを取り戻すために…」 啓司の演説内容は、彼の意図するところではなく歪み始めた。会場も、彼の演説に奇妙な違和感を感じ、ざわつき始めた。 「…そして、私はこの町の医療と福祉を充実させ、誰もが安心して健康に暮らせる環境を整備します。しかし、健康…といえば、私は思い出すのです。あの頃、多くの人々が原因不明の病に苦しんでいたことを。奇妙な咳、皮膚の発疹、そして幼い子供たちの突然の衰弱…。神崎化学工場から排出された有害物質が、地下水を、そして農作物を汚染していたのです。父、巌は、この事実を知っていました。いえ、知っていたどころではありません。彼は、当時の町長や警察と結託し、この事実を隠蔽したのです。莫大な金を使い、被害者の口を封じ、補償を一切行わなかった。私たちの神崎家が、この町の土壌と人々の健康を蝕んでいたのです! 私は、この町の…この町の過去を…」 啓司の演説の内容は、彼の意図とは裏腹に、かつて巌が語っていた、町の公害問題と隠蔽に関する真実を暴露するものへと変貌していった。会場は騒然となった。 「ぬるり」は、啓司が「忘れさせられていた」記憶を呼び起こしていた。それは、町が目を背けてきた公害とその隠蔽の歴史そのものだった。 不本意な演説を止められない啓司の耳に、聴衆の囁きが届く。 「まさか……神崎家が……」 四.代償 町に混乱が広がる中、啓司は、かつて巌が話していた「記憶の穴」とは、この町が長年目を背けてきた公害問題の負の歴史そのものだと理解した。そして、神崎家は代々、この町にとって不都合な過去、特に公害問題の隠蔽を「ぬるり」を用いて隠蔽してきた。しかし、当主の巌が病に倒れ、その力が弱まった今、「ぬるり」は制御を失い、隠蔽されてきた真実を露呈し始めたのだ。 さらに、啓司は、巌の話した「大きな代償」という発言を思い出した。 かつて記憶の穴をふさぐために使ったのは――“妹”だったのか? 演説を終えた後、急に胸が苦しくなり、足が勝手に動いた。息を切らしながら、病院へ向かい、巌の入院している病室へ。 ――しかし。 そこに巌の姿はなく、その痕跡が消えたベッドが忽然と存在していたのみだった。 しばらくして、「ぬるり」の目撃情報はぱたりと止まった。それと同時期に、神崎家も町から姿を消したという。
  • ぬるり007
    一.ネットの都市伝説 2000年代前半、インターネットの片隅で「ぬるり」という奇妙な都市伝説が囁かれ始めた。 その正体は、丑三つ時に誰もいない公園などに現れるという、20センチ程度の真っ黒な球体。常に宙に浮かび、ゆっくりと漂うそれに、好奇心から手を伸ばしても、まるで幻のように指の間をぬるりとすり抜け、決して捕まえることはできない。 始まりは、ごく一部のオカルト掲示板だった。そこに投稿されたブレた写真や信憑性に乏しい目撃談は、当初、誰もが冗談として笑い飛ばしていた。しかし、やがて報告され始めたのは、ただの怪談では片付けられない奇妙な現象だった。 「ぬるりを見た翌日、着信履歴に知らない番号が残ってた」「ぬるりのそばを通った夜から、PCのデスクトップに知らないファイルが増えていた」 それらは、ぬるりが接触した人々の電子機器に、微かな異変をもたらすことを示していた。 大学院生の高橋は、この「ぬるり」の都市伝説に懐疑的な一人だった。 「ぬるり」は、「情報に寄生する実体」ではないかという仮説に対し、高橋は鼻で笑う。「そんな馬鹿な。デジタルデータが実体を持つなんて、荒唐無稽だ。」 彼はそう吐き捨てた。しかし、心のどこかで、説明のつかない現象に対するわずかな好奇心が芽生えていたのも事実だ。 そして、彼はある儀式の存在を目にする。それは、インターネットの深層に潜む「ぬるり」を呼び出すとされる、密かに囁かれていた手順だった。 【閲覧注意】ぬるり降臨の儀 手順: 現象: この儀式を終えると、自身のインターネット使用履歴や検索履歴に、「ぬるり」とは無関係であるはずの、しかしどこか不気味な検索ワードやアクセス記録が混じり始める。 また、普段使っているデバイスの壁紙が真っ黒な画像に変わっていたり、キーボードの特定のキーが触れていないのに反応したりすることがある。 それはまるで、あなたの情報空間そのものが、ぬるりに侵食され始めているかのようです。 深夜0時ちょうど。高橋は、作成した「ぬるり.zip」を、匿名掲示板にアップロードしようと試みた。進捗バーがゆっくりと99%に達した瞬間、彼は迷うことなくキャンセルボタンをクリックした。その夜、高橋はいつもより疲れて眠りについた。翌日も、そしてその翌日も、高橋は同じ儀式を繰り返した。 そして最終日。午前3時33分。高橋は、人気のない近所の公園に立っていた。少し冷える空気の中、彼は深呼吸をし、意を決して叫んだ。「ぬるり降臨!」 彼の声が夜の闇に吸い込まれていく。何も起こらない。高橋は安堵し、そして同時に、少しの拍子抜けを感じた。「やはり、ただの悪ふざけだったか…」彼はそう思い、家路についた。 二.浸食 しかし、その翌日から、高橋の日常は少しずつ、だが確実に侵食され始めた。 まず、研究室のPCの壁紙がいつの間にか真っ黒になっていた。戻しても数時間後には元に戻り、さらにキーボードのキーが触れていないのに勝手に反応する。報告書を作成中に意味不明な文字が入力されたり、ファイルが勝手に閉じたりした。 最も不安を覚えたのは、インターネット履歴だった。定期的に消去していたはずなのに、見覚えのない検索語が残っていた。 「ぬるり 実体化 条件」「存在しない データ 通信」「ネットワーク 深層 アクセスログ」 まるで無意識のうちに自分が検索したかのような、しかし記憶にないワードばかりだった。 さらに、同僚との会話中に異変は起きた。 「高橋、この論文のデータ、ちょっと見てもらえないか?」 画面を見た瞬間、掲載日時、ファイルサイズ、IPアドレス、ダウンロード履歴など、すべてのメタデータが脳に直接流れ込むように理解できてしまった。 「……どうした、高橋? 顔、真っ青だぞ」 遠くから響くような声。彼の思考は制御不能な情報の奔流に呑み込まれていた。SNSの更新、掲示板の書き込み、監視カメラの映像、匿名動画——本来なら関係ないはずのデータが脈絡なく脳内に侵入してくる。 中には彼自身の記録も混ざっていた。幼少期に遊んだ公園の映像、大学時代のメールの文面……“自分”の記憶の全てが、既にネット上に存在していたのだ。 次第に彼は、自我の境界が曖昧になるのを感じた。思考と情報、感情とログ、記憶とキャッシュ。どこまでが「高橋」で、どこからが「ぬるり」なのか——その区別が、つかなくなっていった。 三.失踪 数日後、高橋は完全に姿を消した。その後、高橋の行方は、大学関係者にも、家族にも、ネット上のどこにも見つからなかった。 ただひとつ、奇妙な動きが観測された。 彼が失踪した翌週、匿名掲示板に突如として、あるスレッドが出現したのだ。 【閲覧注意】ぬるり降臨の儀 そこに投稿されていた手順は、高橋が記録していたものと完全に一致していた。関係者たちは、スレッドの出どころを追跡しようとした。複数のルーティングを経たログの末端に、ひとつのIPアドレスが記録されていた。 調査の結果、そのIPは、かつて高橋が研究室で使用していた端末のものだった。 だが、その端末は、高橋の失踪以来、一度もネットワークに接続されていないはずだった。 「……接続記録の日時は、スレッド投稿の数分前。まるで……彼が、そこに“いた”かのように」 その瞬間、関係者の間に、言いようのない戦慄が走った。 高橋は、いまや物理世界のどこにも存在していない。しかし彼は、情報と人間の境界が完全に溶けた先にある、インターネット上の概念と化してしまったのだろうか。
  • ぬるり006
    一.忘却の未来 砂に埋もれた未来の日本。文明の残骸は風にそよぎ、人々は地下シェルターで日々をしのいでいた。過去の記憶は次第に薄れ、閉塞した日常だけがそこにあった。 そんなある日、それは突如として現れた。黒く球形の浮遊物――人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。 「ぬるり」は、地下都市の居住区に現れ、空中をゆっくりと漂っていた。子供たちが面白半分に手を伸ばしても、それはまるで幻のように指の間をすり抜ける。住民たちは最初こそ警戒したが、やがて無害だと判断し、次第に気にも留めなくなっていった。 だが、研究者のミツルだけは違っていた。彼はその存在に、これ以上ない好奇心を感じていた。 二.悪夢の深淵 「ぬるり」の出現以降、地下都市では奇妙な現象が頻発するようになった。人々は次第に夢と現実の境界を失い、やがて誰もが同じ悪夢を見るようになる。 その夢には、暗闇の中を無数の「ぬるり」が浮遊し、囁くような声が絶え間なく響いていた。それは言葉にならない叫びのようであり、どこか哀しげで、訴えかけるようでもあった。 当初は幻聴や幻覚として片付けられていたが、やがて現実にまで影響が及びはじめる。忘れたはずの記憶が突如として甦ったり、心の奥に封じ込めていたトラウマが人々を蝕むなど、その声は徐々に人々の精神にゆがみをきたしていった。 ミツルは、次第にある仮説へと辿り着く。――「ぬるり」は人間の脳波に干渉し、集合的無意識にアクセスしているのではないか。そしてその無意識の奥底から響く囁きは、何かを必死に訴える“声”なのではないか、と。 ミツルは人々から悪夢の内容を聴取すると、そこにはある共通点が浮かび上がった。悪夢に繰り返し登場するある場所。それは、政府管掌地であり市民の侵入は固く禁じられた施設だった。 ミツルは「ぬるり」の発生源を特定するため、過去の資料を漁る中で、かつてこの地下に「記憶を保存する」という名目で建設された実験施設があったことを知る。それは、人々の脳波を記録し、仮想空間で再生することを目的とした、禁断の研究施設だった。施設の記録を辿ると、最後に記録された映像に奇妙な記述があった。 「被験者、意識の統合を開始。これにより、全ての記憶は一つの塊となる」 直後、映像は乱れ、ノイズの隙間から、かすかな囁き声が混じる。それはまるで、統合された意識が、消えゆく前に最後の叫びを残そうとしているかのようだった。 ミツルは実験施設に侵入することを決意した。 三.永遠のぬるり そして、シェルターの混乱が極まる中、彼は悪夢が指し示す場所、つまりその実験施設の最深部へと向かった。そこにあったのは、脈動する巨大な「ぬるり」。無数の黒い球体が重なり合ってできた、禍々しい塊だった。その周囲には、かつての被験者たちの意識が形を成したような、半透明の人影が浮かび上がっていた。 そのとき、ミツルは悟った。「ぬるり」とは、統合された意識の亡霊――あるいは、その残骸なのだと。そして、あの悪夢は、閉じ込められた意識が発していた助けの信号だったのだ。 ミツルは巨大な「ぬるり」に手を伸ばした。 その瞬間、ミツルの脳裏に、この巨大な「ぬるり」の中に閉じ込められた数多の意識が流れ込んできた。それは、永遠に続く苦痛と、解放を求める無言の願いだった。 しかし、その苦痛の波の合間に、ミツルは過去の文明が築き上げた、豊かで刺激に満ちた生活の断片を見た。退廃し、砂に埋もれた自身の時代とは打って変わって、そこには色彩豊かな景色、歓声、そして無限の知識が溢れていた。それは彼にとって、あまりにも魅力的で心地よい世界だった。ミツルの意識は、その集合意識の深淵へと吸い込まれていく。 抗うことなく、彼は「ぬるり」の中に身を委ねた。 やがて、地下シェルターの人々は、悪夢に苦しみながらもミツルの帰還を待ち続けた。だが、彼が戻ることは二度となかった。 ミツルは「ぬるり」の内に溶け込み、永遠に続く幻影の中で、静かに、満ち足りた微笑みを浮かべていた。
  • ぬるり005
    一.ぬるりの伝え 昭和初期、まだ土の匂いが色濃く残る山間の村、九遠(くおん)村。そこには古くから奇妙な言い伝えがあった。夜闇に紛れて現れる黒い球形の物体、「ぬるり」。人の手のひらほどの大きさで、意思を持つかのように空中を漂うそれは、触れようと手を伸ばせばするりと指の間をすり抜け、決して掴めないそうだ。 かつて、村の子供たちが山の奥で遊んでいた際、一人の少年が「ぬるり」を見つけ、好奇心から追いかけていったという。少年が戻ってきたとき、彼は奇妙な変化を遂げていた。顔には生気がなく、何を問いかけても一切の言葉を発さず、ただ虚ろな目で宙を見つめるだけだった。「ぬるり」と接触した者は、口を閉ざし、まるで魂を抜き取られたかのように記憶を失ってしまう、と村に伝えられていた。 二.祖父のルーツを辿る 時が流れ、現代。都心から離れた郊外の町で、フリーランスのルポライターとして活動する加賀美(かがみ)は、今日も朝食を前に悩んだ。彼は長年、原因不明の摂食障害に苦しんでいたのだ。食事が喉を通らない日が多く、肉を前にしたときはそれが顕著となる。医師はストレス性だと診断したが、加賀美自身には心当たりがなかった。ただ、漠然とした飢餓感と、それに対する激しい拒否反応が、彼の日常を蝕んでいた。 ところで、加賀美の唯一の肉親であった祖父は、彼が物心つく前に、ある「奇妙な出来事」に巻き込まれて言葉を失ったという。その出来事の詳細は、祖父の曖昧な記憶と、わずかに残された村の古い記録からしか辿ることができなかった。加賀美は、祖父の故郷である九遠村に伝わる「ぬるり」の言い伝えが、その出来事と深く関わっているのではないかと推測していた。 加賀美は、祖父の足跡を辿り、九遠村の跡地へと向かった。そこはダムの底に沈んでおり、残されたのは資料館と、かつて村があった場所を見下ろす小さな展望台だけだった。資料館には、奇妙なことに「ぬるり」に関する記述はほとんど見当たらない。しかし、一枚の写真が加賀美の目を引いた。それは、幼い祖父と、口を閉ざしたままの村人たちが写った集合写真だった。皆、顔には生気がなく、まるで魂が抜けたかのようだ。加賀美は、写真に写る村人たちの瞳の奥に、得体の知れない恐怖が潜んでいるのを感じた。 三.蘇る記憶 展望台から、加賀美はダム湖を見下ろした。水面は不気味なほど静かで、まるで村の悲劇を隠し持っているかのようだった。その時、彼の目の前を、黒い球体が横切った。それは、間違いなく「ぬるり」だった。加賀美は反射的に手を伸ばしたが、ぬるりはするりと指の間をすり抜け、湖の底へと消えていった。 その瞬間、加賀美の脳裏に、かつてないほどの激しい頭痛が走った。そして、誰かの記憶が、鮮明な映像となって加賀美の脳内を支配した。 祖父の故郷である九遠村は、ダム建設を巡って政府に強く反抗していた。政府と村人との交渉は、長年膠着状態であったが、ある年、記録的な大型台風が村を襲い、唯一の幹線道路が土砂崩れで完全に封鎖された。通常であれば即座に復旧作業が始まるはずだったが、九遠村だけは違った。政府が、村への支援物資の搬入も、復旧作業も、意図的に滞らせたのだ。これは、村の反抗に対する政治的な報復だった。 食料も医薬品も底を尽き、孤立無援となった九遠村では、やがて飢えと病が蔓延し始めた。幼い子どもたちや年老いた者たちが、次々と命を落としていった。記憶の持ち主は、目の前で衰弱していく村人たちに、何一つ手を差し伸べることができなかった。 そして、ある夜のことだった。極限まで追い詰められた村人たちは、禁忌を破るという決断を下した。「それ」を口にすること。それは人として越えてはならない一線だった。だが、命をつなぐため、彼らはある肉を口にした。誰のものだったのか、誰も語らなかった。ただ、その事実だけが、重く村人たちの胸に沈殿していった。 翌朝、村人たちはついに政府に膝を屈した。村を明け渡し、道路が開かれ、物流が戻った。支援物資も届きはじめ、ようやく命の危機は遠のいた。だが、村に残ったのは深く消えない傷跡だった。 九遠村の記憶は、もはやただの郷愁ではなかった。飢餓と腐敗、そして沈黙の罪。それが村人たちの記憶を支配し、すべてを塗りつぶした。誰もが、あの日々を忘れたかった。 そのときだった。「ぬるり」の伝承が村に蘇ったのは。それは、苦しみを引き受け、記憶を水底へと沈めてくれるもの——。 村の片隅にひっそりと残されていた、苔むした祠が開かれた。そこで彼らは、かつて封じられた「ぬるりの器」を見つけた。中には漆黒の球体。闇よりも濃く、まるで水そのものが意思を持ったように脈打っていた。 その夜、村人たちは静かに集まり、一人ひとり、ぬるりに触れた。誰も言葉を交わさなかった。ただ、冷たい感触が指先を這い、心の奥底にまで染み込んでくると、胸の痛みが、徐々に霧のように薄れていくのを感じた。 朝になったとき、村には誰一人として残っていなかった。九遠村は、最後の集合写真一枚を残して、そのまま地図からも、人々の記憶からも、静かに消えていった。 四.悲劇を知って 加賀美の摂食障害は、この政治的な飢餓および犯した禁忌という、祖父の最も深いトラウマが原因だった。彼の体が無意識のうちに再現していたのは、九遠村の人々が経験した極限の飢餓と、それによって犯さざるを得なかった禁忌、そして深い絶望だった。特に、肉を前にしたときの激しい拒否反応は、村人が生命を繋ぐために口にした、ある「肉」への忌まわしい記憶が、祖父から加賀美へと受け継がれていたことに他ならなかった。 加賀美は、この悲劇を忘れてはならないと強く思った。九遠村がダムの底に沈み、人々の記憶からも消え去ろうとしていても、彼自身がその記憶を受け継ぎ、語り継ぐべきだと。彼は九遠村の資料館を出ると、ゆっくりと深呼吸をした。新鮮な空気が、これまで彼の体の中を澱ませていた何かを洗い流していくようだ。 その日の夕食、加賀美はいつもよりも多くの量を口にすることができた。完全ではないが、これまで感じたことのない穏やかな感覚が、彼の胃を満たしていくのを感じた。
  • ぬるり004
    一.幼馴染たち 平成の中頃、薄暮に染まる寂れた町。そこに暮らすごく普通の中学生、祐樹の日常は、ある日突然現れたぬるりによって変貌した。 それは、人の頭ほどの大きさの漆黒の球体だった。音もなく宙を漂い、触れようと手を伸ばすと、まるで水の中を泳ぐかのようにぬるりと指の間をすり抜ける。誰もがそれを幽霊のようなものだと思い込み、気味悪がりながらも日常の片隅に押しやった。 それから、町中で不可解な出来事が頻発するようになる。大切にしていたものが突然消えたり、見覚えのない場所に現れたり。そして、その現象の傍らには必ずぬるりが浮遊していた。 祐樹には、健一と彩香という二人の幼馴染がいた。三人いつも一緒で、くだらないことで笑い合ったり、時には些細なことで喧嘩したりと、かけがえのない日々を過ごしていた。祐樹も健一も、秘かに彩香に惹かれていたが、その気持ちを口に出すことはなかった。 そんなある日、彩香が忽然と姿を消した。原因は全く分からず、警察も介入したが手掛かり一つ掴めない。前触れもなく、まるで最初から存在しなかったかのようだった。学校中が騒然とする中、祐樹はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。頭では何が起きたのか理解しようとするが、心がついていかない。彩香の笑顔、声、隣にいた温もり――すべてが蜃気楼のように感じられれ、周囲にはぬるりが漂っていた。 二.幼き日の欺瞞 その日の夕方、憔悴しきった様子の健一が祐樹の家を訪ねてきた。顔は青ざめ、目の下には深いクマが刻まれていた。 「頼むから……お前だけは、いなくならないでくれ」 震える声でそう懇願する健一の目には、涙が溢れていた。普段は冷静で、どこか飄々としていた彼が、子どものように弱さをさらけ出していた。祐樹は何も言えず、ただ無言で、友の肩を強く抱きしめるしかなかった。 ふと、その時だった。健一が祐樹の部屋の隅で、埃をかぶった古びた玩具を見つけた。 「これは……懐かしいな。おれが昔、お前にあげたやつじゃないか。友情の印として……」 祐樹はその玩具に目を奪われた。確かに、これは――子どもの頃、彼が何よりも大切にしていた物だ。しかし、彼はその玩具を「失くした」と思い込んでいた。いや、実際には……隠したのだ。 記憶が一気に押し寄せてきた。あの日の夕暮れ。ヒロキという新しい友だちに心惹かれはじめ、健一との間に微妙な距離が生まれていた頃。祐樹は、健一からもらったその玩具を、あえて物陰に隠したのだ。「もう健一のことなんてどうでもいい」と、自分に言い聞かせながら。 だが、隠したはずのその玩具が、今、目の前にある。しかも、その傍らには、漆黒の球体――重力すら捻じ曲げそうな、深淵のような存在が、空中に浮かんでいた。 そして、祐樹は思い出した。 あの日。玩具を隠した瞬間、確かに“ぬるり”とした何かが、視界の端に現れたのを――。黒く、形を持たず、ただそこに「在る」だけの異質な存在。まるで、心の闇を映す鏡のように。 「あれは……俺が“失くしたい”と願ったものを、具現化していたのか?」 三.ぬるりの正体 ぬるりは、最初から祐樹の中にいた。彼が幼い頃から抱いていた、誰かの大切なものを「ぬるり」と消してしまいたいという、形のない悪意の塊。それが、成長するにつれて肥大化し、現実の世界にその姿を現したのだ。町で起こる不可解な現象も、人々が心の中で密かに「消えてしまえばいい」と願ったものが具現化した結果だった。 そして、祐樹の脳裏には、数日前に目撃した光景がよみがえっていた。それは、彩香が、祐樹の親友である健一に笑顔で話しかけ、ほんの少し赤らんだ頬で健一にプレゼントを渡していた姿。その光景を目にした瞬間、その傍らには、いつもより大きく脈打つぬるりが浮遊していたことを、祐樹は鮮明に覚えていた。 祐樹は鏡を見た。そこには、漆黒の瞳を持つ自分が映っていた。その瞳の奥には、小さな、しかし確かに存在するぬるりが、静かに蠢いているように見えた。
  • ぬるり003
    一.ぬるりの救い 闇夜に溶け込むような墨色の球体。それが現れたのは、江戸も末期、とある寂れた長屋の片隅であった。人々はそれを「ぬるり」と呼んだ。手が届くかと思えば、その瞬間に空気を滑るように消え、また別の場所で姿を現す。まるでそこに実体がないかのような、掴みどころのない存在。 長屋に住まうお浪は、日雇いの洗濯で細々と生計を立てていた。夫は博打狂いの挙げ句、数年前に姿を消した。残されたのは病弱な娘、お鈴。お鈴の病状は悪化の一途を辿った。高熱に魘され、幻を見る。医者からは手の施しようがないと言われ、お浪は絶望の淵に沈んだ。ある夜、お浪がお鈴の咳き込む声に目を覚ますと、枕元に「ぬるり」が浮遊していた。思わず手を伸ばすも、するりと躱された。 そんな折、お浪は奇妙な噂を耳にする。「ぬるり」に触れた者は、その魂の一部を奪われるという。しかし、別の噂もあった。「ぬるり」に触れた者が、失ったものを取り戻したという話も。お浪は藁にもすがる思いで、「ぬるり」を追い始めた。 ある日、お浪が洗濯物を干していると、「ぬるり」が目の前を横切った。今度こそと、渾身の力で手を伸ばす。すると、これまでとは違い、確かに手のひらに柔らかい感触があった。しかし、その瞬間、お浪の視界は真っ白に染まり、意識が途絶えた。 次に目を覚ますと、お浪は布団の中にいた。傍らでは、お鈴が穏やかな寝息を立てている。額に触れると、熱はない。信じられない思いで医者を呼ぶと、医者は首を傾げながらも、「奇跡だ」と呟いた。お浪は安堵に涙した。お鈴が回復したのは紛れもない事実だった。 しかし、お浪の安堵は長くは続かなかった。お鈴の病は癒えたものの、お浪自身が少しずつ変化していくことに気づいたのだ。まず、身体が異常に冷え込むようになった。そして、鏡を見るたびに、自分の顔が少しずつ、だが確実に、痩せこけていくように感じられた。さらに恐ろしいことに、時折、お浪の記憶が薄れるようになった。夫の顔が思い出せない。洗濯物の干し方がわからない。お浪は、自分の魂が少しずつ「ぬるり」に吸い取られているのではないかと、戦慄した。 二.魂のうつろい ある夜、お浪はふと、お鈴の枕元に「ぬるり」が浮遊しているのを目撃した。しかし、それは以前見たものとは少し違っていた。以前よりも、ほんのわずかに、大きい。そして、お浪の体は、その「ぬるり」へと吸い寄せられるかのように、ゆっくりと、しかし確実に傾いていく。お浪は抗おうとした。だが、身体はいうことを聞かない。 まるで透明な糸に引かれるように、お浪の意識は「ぬるり」へと吸い込まれていく。その瞬間、お浪はかつて経験したことのない、激しい光に包まれた。視界が真っ白になり、何も見えなくなる。そして、次の瞬間、まるで深い水底から浮上するように、お浪は息を吸い込んだ。 ゆっくりと目を開けると、そこは慣れ親しんだ長屋の天井だった。しかし、何かが違う。自分の手を見つめる。それは、以前よりもずっと小さく、細い。まるで、幼い子供の手のようだった。傍らを見ると、布団が盛り上がっている。そこには、うっすらと開いた目で天井を見つめる、自分自身の姿があった。 その身体は、以前よりも一層痩せこけ、肌は蝋のように冷たかった。まるで、生気というものがそこから完全に失われたかのように。お浪は、その光景を理解するのに時間を要した。お鈴。これは、お鈴の身体だ。そして、横たわるのは、自分自身の亡骸。 すべてを悟った瞬間、お浪の胸に激しい後悔と、底知れぬ絶望が押し寄せた。お鈴を救うために触れた「ぬるり」は、お浪の魂をお鈴の身体に移したのだ。お浪は、お鈴の生命を取り戻したいと願ったが、お浪がお鈴の人生を奪い去ろうなどとは望んでいなかった。お鈴の魂はどこに消えたのだろうか?その罪は、代償というにはあまりにも重いものであった。 お浪は、小さくなった手で自分の顔を覆い、静かに涙を流した。しかし、その涙は、お鈴の小さな身体を震わせるだけで、誰もその悲しみに気づくことはなかった。
  • ぬるり002
    一.触れられぬ存在 夜の闇が帳を下ろす頃、古びた団地の薄暗い一室で、テレビの砂嵐だけが唯一の話し相手だった彼女は、それを見た。 「ぬるり」と音もなく現れたそれは、ガラス玉ほどの漆黒の球体。光沢があるが、不気味なことに何の反射も見られない。恐怖よりも好奇心に突き動かされ、恐る恐る手を伸ばす。触れる寸前、球体は微かに揺らめき、まるで水の中を泳ぐ魚のように、ぬるりと彼女の指の間をすり抜けた。掴めない。存在しているのに、掴めない。日頃から誰にも必要とされていないと感じていた彼女にとって、その奇妙な存在は、むしろ刺激的ですらあった。 翌日から、「ぬるり」は彼女の日常に現れるようになった。眠る枕元、料理中の背後。常に視界の端にあり、しかし決して触れることはできない。まるで彼女の孤独に寄り添うかのように、あるいは孤独を餌とするかのように、それはただそこに存在し続けた。彼女は「ぬるり」が心の拠り所となっていた。 しかしその存在は、客観的には彼女の心身を蝕んでいったようだ。睡眠は浅くなり、食欲は失われ、唯一たまに話すのあった団地の自治会員からの連絡さえ、彼女は取ることをしなくなった。 心配した彼は、彼女の部屋を訪ねた。彼女は「ぬるり」の存在を熱弁したが、「ぬるり」は自分にしか見えないようだ。「妙なことを言い出した」と、彼は落胆した。それは彼女をさらに深く、見えない壁の中に閉じ込めた。彼女は孤立感を深め、次第に狂気に陥っていく。 「私だけが見えているのよ! 私だけが……!」 二.継承 数ヶ月後、団地の住人からの通報で、彼女の変わり果てた姿が発見された。死因は衰弱死。検視官の一人は首を傾げた。彼女の遺体の隣に、漆黒のガラス玉が落ちていたのだ。ビー玉ほどの大きさで、何の反射もない。検視官が手を伸ばすと、ぬるりと指の間をすり抜け消え去った。 この日を境に、検視官の日常は一変する。夜な夜な部屋の隅に現れるその漆黒の球体「ぬるり」は、次第に彼の視界に頻繁に現れるようになる。職場でも街中でも、誰も気づかない「ぬるり」の存在は、彼と周囲との間に見えない壁を築いていった。 彼は眠れなくなり、食欲も失っていった。ある晩、鏡に映った自分の顔を見て、彼はゾッとした。そこに映っていたのは、憔悴しきった、あの団地の彼女と瓜二つの顔だった。 ある雨の日の深夜、検視官は自宅のベランダに立っていた。彼の目の前に、これまでで最も巨大なぬるりが現れた。それは彼を包み込むかのように大きく、周囲の光を全て吸い込んでいるかのようだった。 彼は震える手で、ゆっくりと「ぬるり」に触れようとした。指先が、その漆黒の表面に触れる寸前。検視官の視界が歪み、世界がねじれていく。彼の全身から力が抜け、意識が遠のく。最後に感じたのは、体の内側から、温かい何かがぬるりと彼の喉元を這い上がり、口から零れ落ちていく感覚だった。 三.終わりと、 翌朝、検視官は自宅から姿を消した。彼の部屋に残されたノートには、震える筆跡で、たった一言だけ記されていた。 「私も、ぬるりになった。」 そしてそのノートの隣に、もう一つ、別のメモがあった。それは、まるで子供の落書きのような稚拙な文字で書かれていた。 「ありがとう。これで、わたしもひとりじゃない。」 そのメモのそばに、あの団地の彼女の部屋で見つかったのと同じ、漆黒のガラス玉が、まるでそこにずっとあったかのように静かに転がっていた。
  • ぬるり001
    一章 漂う影 昭和三十年、田舎町。蝉の声が降り注ぐ午後、私は縁側で冷えた麦茶を啜っていた。隣では、縁側に腰掛けた妻が、縫い物の手を休めてふと空を見上げている。「あなたも少しは休んだらどう? いつも仏頂面ばかりじゃ、シワが増えるわよ」。彼女の優しい声に、私は曖昧に頷いた。しかし、その直後、視界の隅を黒い何かが横切った。初めは鳥かと思ったが、それは空中でぴたりと静止した。 直径三十センチほどだろうか、漆黒の球体。表面は光を吸い込むように鈍く輝き、まるでそこに空間の穴が空いているかのようだった。好奇心に駆られ、ゆっくりと手を伸ばす。指先が触れる直前、それは「ぬるり」と音もなく滑り、私の手のひらをすり抜けた。掴めない。まるでそこに存在しないかのようだ。妻に話しても、彼女は首を傾げるばかりだった。「一体何を言っているの? ここには何もいないじゃない」。 二章 浸蝕 「ぬるり」は私にしか見えないようだった。家族に話しても、気のせいだと笑われた。しかし、私の中の「ぬるり」の存在感は増していく。夜になれば枕元に浮かび、夢の中にまで現れるようになった。 しかし、私は「ぬるり」が見えることを誰にも言えなかった。もし私が「ぬるり」に憑かれていると知られたら、狂人扱いされるだろう。戦争で心まで病んだのだと、そう言われるのが怖かった。すでに多くのものを失い、これ以上、自分という存在が損なわれることに耐えられなかった。 終戦から十年。瓦礫の山だった町は、少しずつ形を取り戻し、人々も明るさを取り戻しつつあった。しかし、私だけは、あの日の記憶から抜け出せずにいた。焦土と化した故郷、目の前で崩れ落ちる家屋、そして、もう二度と帰らぬ家族の顔。彼らの声も、匂いも、日ごとに薄れていくのに、あの時の絶望だけは鮮明だった。私は生き残ってしまった。それが、時に耐え難い重荷となってのしかかる。 ある夜、夢の中で「ぬるり」は、ぼんやりとした光を放ち始めた。その光は、まるで遠い記憶の残像のように揺らめき、そして、一瞬だけ、兄の笑顔が浮かび上がったように見えた。 私は飛び起きた。全身から汗が噴き出し、心臓が激しく脈打つ。兄は、空襲の夜、私を庇って死んだ。その時、最後に見た兄の顔は、苦痛に歪んでいたはずだ。だが、夢の中の兄は、まるで昔のように穏やかに笑っていた。 「ぬるり」は、私の失われた記憶を呼び覚まそうとしているのか? それとも、ただ私の心の隙間に入り込もうとしているだけなのか? どちらにしても、私はその漆黒の球体から目が離せなくなっていた。 三章 共鳴する過去 あの日以来、私の日常は少しずつ変容していった。漆黒の球体は、もはや恐怖の対象ではなかった。それは、まるで失われた記憶の断片を繋ぎ合わせる、不可思議な案内人のようだった。昼夜を問わず、私の傍らに漂い、時には夢の中に深く潜り込み、忘却の淵に沈んでいた光景を鮮明に蘇らせる。 ある日の午後、縁側でうたた寝をしていると、またも「ぬるり」が目の前に現れた。いつもより強く光を放ち、その中に歪んだ景色が映し出された。それは、焼け焦げた町、崩れ落ちた家々、そして、煙の中から立ち上る黒い渦――あの空襲の夜の光景だった。しかし、決定的に異なるのは、そこに私自身の姿がなかったことだ。その時、「ぬるり」から声が響いた。 「お前も、こちらへ来い」 その言葉は、私の中にずっと燻っていた罪悪感を抉り取った。なぜ、私だけが生き残ってしまったのか。なぜ、愛する家族は死に、私だけがこの苦痛を味わい続けなければならないのか。私は、怒りと悲しみ、そして自己への嫌悪がないまぜになった感情に支配された。 妻は、そんな私の異変に気づいていたのだろう。心配そうな眼差しで私を見つめるばかりだった。 四章 終戦記念日の朝 昭和三十年八月十五日。蝉の声は、この日も降り注ぐ。私は縁側で、冷えた麦茶を啜っていた。隣には、「ぬるり」が静かに漂っている。しかし、この日の「ぬるり」は、いつもと違っていた。これまでとは比べ物にならないほど強く輝き、その表面には、信じられない光景が映し出されていた。 それは、終戦間近の日本の風景だった。しかし、そこに空襲の痕跡はなかった。焼け焦げた建物も、瓦礫の山もない。人々は穏やかな表情で、町は平和そのものだった。そして、その光景の中に、若き日の両親と、笑顔の兄の姿があった。彼らは、まるでこれから起こる災厄を知らないかのように、楽しげに笑い合っている。 「ぬるり」から、再び声が聞こえた。しかし、それは、これまでのように私の心を抉るような声ではなかった。それは、まるで優しい囁きのように、私の脳裏に響き渡った。 「お前は、ここで生きろ」 その甘言につられ、私はつい手を伸ばした。次の瞬間、漆黒の球体は激しい光を放ち、私の視界は真っ白に染まった。 そこには、これまで見慣れたはずの田舎町があった。しかし、そこには、戦後の傷跡が一切なかった。真新しい家々が立ち並び、道行く人々は皆、明るい表情で挨拶を交わしている。そして、町の中心には、あの巨大な爆弾が落ちたはずの場所に、平和な広場が広がっていた。 私は、呆然と立ち尽くした。これは、一体どういうことなのか。「ぬるり」が私を、終戦直前に巨大な爆弾が落ちなかった世界へと連れてきたのか? 私は、夢の中にいるのか? その時、背後から優しい声が聞こえた。 「お兄ちゃん、遅いよ! みんな待ってるんだから!」 振り返ると、そこに立っていたのは、あの頃と変わらない、若き日の兄だった。彼は、あの空襲の夜に失われたはずの命を、今、この平和な世界で生きている。私は、思わず兄の頬に触れた。温かい。確かにそこに存在する。私は、溢れる涙を拭いもせず、ただひたすらに、兄の顔を見つめていた。 五章 残された者 縁側で縫い物をしていた妻は、隣にいたはずの夫がいないことに気づいた。日差しが傾き、夕闇が迫る。家の中を探すが見当たらず、玄関の下駄から外出していないことを察した。庭に出ると、不穏な静けさが漂い、虫の声だけが大きく聞こえた。 「どこへ行ってしまったの…」 妻の呟きは誰にも届かず、夏の終わりの空に吸い込まれていった。彼女の知る夫は、もう二度と、その縁側に戻ってくることはないだろう。